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「いい人」ほどやりがち!?「してあげる」という無自覚な押し付け。

 今日、カフェで作業しようと歩いていると、重そうな荷物を持つ女性に、彼氏らしき男性が「持ってあげるよ」声をかける。
女性は「ありがとう」とニッコリ。

 そのカップルが、そのまま私が入ろうとしていたカフェに入っていく。
私は彼らの後ろに並びメニューを眺めていると、
彼氏らしき男性が彼女に「僕が奢ってあげるよ」と一言。
彼女は「えー、ありがとう」とまたニッコリ。

一見微笑ましい光景にも見えますが、

私は少し引っかかりました、彼のその言葉に。
「◯◯してあげる。」という言葉。

「持ってあげるよ」
「持つよ」

「払ってあげるよ」
「払うよ」

僅かに何か違いを感じませんか?

何かしら、彼の意図・都合が乗っかっているように見えます。

もちろん「これは貸しだからね!」なんて言っていませんし、
そんなつもりはないと思いますが。

無自覚なところで意図・都合が乗っているように思います。

そして、多くの場合、
心の余裕がなくなると「のに」が出てくることがあります。

あの時、こんなにしてあげたのに
あの時、僕はこうしたのに

無自覚に「いい人」を演じている人ほどコレをやりがち。

 以前の私もそうでした。
人に親切にする時に、親切だと思われたいという意図が少なからずありました。何か人が嫌なことを引き受ける時も「いい人だ」と思われたいという意図が僅かに乗っていました。(ガッツリ乗っていたかもしれません。。)

さて、私のお友達のうどんさんのツイートを拝借してきました。

何かしらの都合が乗っているものは、言動に顕れなくとも
相手にしっかりと届きます。

何かしらの下心(意図・都合等)が僅かにでも混じると、
相手はそれも一緒に受け取ります。

親切の押し売りとまではいかなくとも、
僅かでもそれが混じると、どこかに伝わっていきます。

そしてその時「貸し」たつもりがなくとも、
無自覚なところに、しまってあります。

喧嘩をしたり、自身の心の余裕がなくなっていると、
「俺はあの時こうしてあげただろ!」みたいな話を引っ張り出してくることがあるわけです。相手に伝えないにしても、どこかにそれがあると「俺はこんなにしてあげているのに」という不満が溜まっていきます

意図も都合も乗らない、混じりっけなしの私に。

Xでこんなポストを見かけました。

「人によくしてもらいたいなら、まず自分が相手によくしよう!」

一見、それっぽく聞こえますよね。
「いいね!」もたくさんついていました。

ここまでこの記事を読んだ方には、
この言葉が、どのように映るのでしょうか。

親切にしてもらいたいなら、まず自分が親切にする。というのは、
自分が親切にしてもらいたいという意図が乗っています。

「親切にしてもらいたいから」に意図がどっかり鎮座していますよね。

「親切にしてもらいたいから、まず自分が親切にする。」
と「親切にする」

これは、同じではないことは、わかると思います。

しかし、この「親切にする」にも
まだ調味料が乗っています。

「親切」という言葉自体に、わずかに調味料が入っていませんか?

「親切にする」と「ただ、する」この違いを感じてみてください。
どちらが、混じりっけなしなのでしょうか。

言葉の揚げ足をとりたいわけでも、
神経質なわけでもありません。

この僅かな調味料、この僅かな無自覚な意図・無自覚な都合が、積み上がってできているのがあなたの不満でもあります。

不満をあるようにする私は、
様々な意図・都合を無自覚に握っていることがあります。
無自覚が故に、その影響を受けています。

そして、多くの場合、
「私は悪くない」「私は一生懸命やってる」「あなたのことを思って」「それなのに・・・」と、自分の正当性を主張し、相手を責めるという行為をしがちです。

これは、あなたが悪いとか、相手を責めるなとか、自責、他責云々という
巷にある浅いところのお話ではありません。

そうなる必然が無自覚に潜んでいるわけで、
起こることが、起こるべくして、起こっているというだけです。

その起こったことをあれこれと議論しても時間の無駄です。

起こったことをあるようにしている私、
その私を知っていくことで、本質的な自由へと向かっていきます。

あらゆる意図・都合・考えから自由になったときに、
「ただ、する」ということができる境地
に立っています。

「ただ、する」となっている時、
自分自身も、相手も、スッキリしています。
混じりっけなし、後味なし、ゴミも埃も出ません。

「ただ、する」をやろうとするのでもなく、
何か修行をするのでもなく、考え方を採用するのでもなく、
あるべき姿を目指すのではなく、
意図・都合を握っている私を知っていく。

そっちの方向です。
どのような私とも、否定も、肯定も、判断も、解釈もせずに、
向き合いましょう。

そして、スッキリとした私で歩いていきましょう。
その時、あなたの周りの人にも、そのスッキリさが伝わっていきます。


「向き合う」というのは、
自身の思考や言動を見て、反省するのではありません。
思考や言動と向き合うと、あれこれと判断して、反省したり、
そうしている自分を責めたりしがちで苦しくなります。

思考や言動をあるようにする私と向き合っていきます。
そこには肯定も否定も判断もありません。

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