悟ってからが面白い
わたしは、自己肯定感は全くありませんし、自己肯定する事も全くありません。
そんな中で、自覚をお伝えしています。
文章が終わってしまった感が、とてもありますが、もう少し書いてみます。
自覚を伝えていて、自分が正しい事をしているとも思いません。
しかし、自覚をした方々の広がり、伸びを見ていると、自覚がそこ方々にとって、どれだけの貢献をしているかが、伝わってきます。
今まで、得られなかった五感では感じられない広がり。
その広がりが、五感、六感に波及していきます。
自覚を進める事はありません。
勧められたことを理由に始める方は、自覚が成就しにくい方だからです。
そういった、合理的理由でしかなく、エゴが消えたからとか、欲がないからという理由からではありません。
マーケティングを使って、自覚に興味を持たせるという手法も同じです。
ですから、一般的なマーケティングは役に立ちません。
これを読んで、自分は自覚に見ているかどうか、考える方は少なくないように思います。
結論から言うなら、考えて終わる方は、向いていない可能性が高いように思います。
差取り塾では、悟ってからが本番
世の中では、悟るとか悟らないとか、悟っているとかいないとか、悟りとはこういうものだ・・・
そんな議論がされています。
そこに、何の合理性も感じません。
悟りを語って、お客さんを寄せるなら、そこには有効性を感じます。
わたしは、そこに全く価値を感じません。
さて、まだまだ、悟ったという方は、なかなかいません。
ですから、そこまでのご案内も同時にしています。
シェルパのように一緒に歩くと言っていますが・・・
新幹線の速さで進んでもらっています。
徒歩で、迷いながら歩いている方々を横目に・・・する暇などないくらいの速さで、スタートラインまでご案内します。
これを今までの常識で考えたら、信じることはできない方がいても不思議ではありません。
歴史がある慣習での悟りへのアプローチは、時間と労力を懸けるモノになっているようです。
現代では、悟りの本質をわからない悟っていない者が騙ります。
その騙りがまた、いいマーケティングをしています(笑)
マーケティングにのる方は・・・と、先ほど書きましたが、その集客は、わたしにとって助かっています。
そこに流されない方が、自覚の道を歩めるからです。
流される方に来られても、新幹線にのせることができません。
自覚を理解できないからです。
今の世の中、沢山のスピーカーがいらっしゃいます。
その方々が、まさか、自分が流されて発信しているとは思っても見ない事でしょう。
多くの方に支持されるスピーカーほど、流されている大衆の支持を得ているという事です。
天邪鬼の様な事を書いていますが、合理的思考ができる方ならわかる事です。
わたしは、安心するようなことを無責任に書きません。
しかし、自覚をするなら、安心する事から卒業し、不安のない在り方になっていきます。
不安を抱えながら、安心を握っているからこそ、苦しみがや葛藤が生まれています。
それをしているからこそ、自分自身の本当の価値に気付くことができません。
自分の本質に気付く方は、同時に社会との葛藤も抱えています。
自分の本質を理解するなら、整合性を取りながら、楽に生きていく事にもつながっていきます。
本質に気付く方はそれなりにいますが、本質を理解している方は、ほとんどいませんし、自覚人であっても、その途中です。
悟りの領域に足を踏み入れてもその状態です。
自覚し、悟りに至るなら、そういった事も、詳らかになっていきます。
自然に起こる理解は、いつも、最善の時期に起こり、葛藤とは無縁に起こります。
それを自覚で起こしていくのです。
お釈迦様の理解
先日のセッションにおいて、ある境地に達した瞬間のお話です。
わたし「ねっ」
塾生「はい」
わたし「今なら、なんでお釈迦様がそういったかわかるでしょ」
塾生「はい」
この会話で、どれほどの情報量が行きかっているか伝わらないかもしれません(笑)
膨大な情報が行きかっているのですが・・・
これを伝えようよしても伝えられないのです。
こういう会話を体験してみたいなら、わたしのところにいらしてください。
こういった会話は珍しい事ではありません。
しかし、あまり表に出さないのは、興味で動いてしまう方々を刺激しないためでもあります。
ノートを読みに来てくださる方は、それなりの価値を感じてくださる方々です。
Xに書ける事と、ノートに書ける事は、違います。
最近では、動画を見て、自覚を実践して下さている方がいて、変化を実感してくださっている声も聞こえるようになりました。
そのような声を寄せてくださる皆様には感謝しています。
自己肯定感を超えてた価値をそこで感じます(笑)
自覚を自分で実践する方が増えるのはとても有り難い事です。
そして、その先をもっと知りたくなった方が自覚人の道に入る方々です。
それも、本人の自由意思が働いて起こる事が大切です。
仏教の教えから見る、自覚の道程
不退転位:崩れないさとり
このさとりの52位の中で、40段目までを「退転位たいてんい」といい、41段目以上を「不退転位ふたいてんい」といいます。
「退転たいてん」とは、油断すると悟りが崩れることをいいます。
こちらがわかりやすく説明されています。
わたしが、自覚を伝える中で、この事は無視できない現象です。(真実とは書きません)
実際に、社会の仕組みに流されて、転げ落ちるように自分が上った道を忘れ去る方は、何人も見てきました。
人間のエゴとは、とても巧妙に自己を主張します。
それがいつ起こるかはわからないのです。
不退転位というところまでいかない限りいつでもそれは起こる・・・
というのは脅しのようにも聞こえますが、一理ある考えでもあります。
ですから、わたしは、無責任に一人でもきますから大丈夫とは言いません。
一人ひとりの価値観がその方を支配しています。
その価値観が消えた時、また、違う道が見えるというだけでもあります。
自覚がうまくいくなら、そういった変化が起こるでしょう。
新幹線チケットを買いたくなったら買えばいい。
それまで、好きな進み方をすることが、とても大切だと、わたしは考えます。
不退転位、そこまで行く事の重要性は、触れてみないとわかりません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?