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99%の方は、はまっている

人間のほとんどは、この世を思い込みで語っています。

スピーカーとして、人気がある方々は特にそうです。

その区別がつく方は、全体の1パーセントもいない印象です。

思い込みで語る方と、そうでない方の区別は、なかなか難しいかもしれません。

しかし、難しいからこそ、人間を超える最後の難所ともいえます。

人間を超えた境地

逆に、思い込みで語っていないとは、どういうことなのでしょうか?

そこに向き合うなら、自分自身で進むべき未来が見えてくるように、思います。

言葉という現われは、すでに「それ」をあらわす手段であって、それそのもではありません。

この時点で区別を難しくします。

「それ」そのものを違うモノであらわしているという事に人間は無自覚です。

自覚をしようとする方は、どこかでそれを知っている方です。

そういった方が、わたしのところに来て3カ月から半年で、悟りに至る事が珍しくないのは、そういった事に起因しています。

今、あなたが置かれている状態

つまり、あなたの在り方、境地

それを正しく自覚する事は、あなたが進むべき道を知る事・・・

ではありません。

それを知り、今できることをする事。

それを確実に実践する事で、あなたの後ろに道ができています。

多く方は、道があって、それを進もうとします。

しかし、実際に道などありません。

実感できる道とは、自分の経験でしかありません。

進むべき道とは、あくまでも方便です。

この知見が広がっていくと、世の中は進化します。

その為には、その境地に実際に立っている事が最も大切です。

示された道

○○道・・・茶道や華道、弓道など・・・

その形が示されているものがあります。

それは形であって、その形から知る事は膨大です。

日本が誇る事ができる素晴らしいものです。

実際その道を歩んだだけでは、道を知る事はできません。

師匠につきながら進む事で、本質に触れ始めます。

道自体に価値を見ているうちは、その本質に触れることはできません。

その道をあらわした者の境地に触れるためには、ただ、形にフォーカスしているうちは無理なのです。

しかし、その無理をただただ続けてみると、そこに触れ始めるという事が起こります。

そこには、師匠からの感化も大きく影響します。

ついた師匠の姿勢によって、その師匠が触れるところからの感化を受けます。

師匠が師匠である所以です。

もし、達人が、道を歩んできたというなら、それは違っていて、

示された道と、歩んだ道(経験)が一致する感覚が起こった時(本質に触れている時)示された道を歩んだかのような認識になります。

方便は方便でしかない

この世で語られることはすべて方便だという事に気が付き始めたでしょうか?

それを知ったうえで、スピーカーたちの話を聞くなら、人間が思い込みの上に思い込みを重ねている事に気付くかもしれません。

気付くとは、触れる事。

気付き、知る。

その時初めて、本質を「私」自身に収めることになります。

私がお伝えしている事にゴールはありません。

人間を超越しても、その先はあり続けます。

それは、神をも超越する事。

けっして、神を愚弄する事ではありません。

神を信じることなく知る事。

それが神への敬意でもあります。

神を信じて、自分の都合よく解釈している事の方が、よっぽど神を愚弄していますし、本質から離れる所作です。

示された道を進む時、最も重要な事は、自分の都合で進まないという事。

自分の解釈を超えた時、茶道が示す本質が自分自身の中から溢れ出します。

その為の道であり、方便なのです。

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