表情(かお)

 私はどうやら頭が狂っている。
 主治医の峰内先生は呆れたような表情で私を見た。
「真奈さん......薬、飲んでる?」
 私は峰内先生が好きで、またこの人も私を好きなのだ。という妄想がある。だが、それを確認することも表情に出すことも許されない。なぜなら妄想だったら恥ずかしくてたまらないからだ。
 病気になったとかならなかったとかで人は人であるかどうかが決まるらしい。私のような精神異常者に人権などないらしい。なぜなら異常だからだ。正常な友情も愛情も育めないまま今年で26歳になる。真奈あゆみ。私の名前と共に在り続けるその、異常な人生。毎日毎晩毎朝、人がいる。それは峰内先生かもしれないし、そうでないかもしれない。
 街はまだ昼間のような顔をして、夏が近く夕方だった。通りすがる人々は私を見て何かを思う。何かを思いながら表情に露わにする。でも私はそれに反応してはいけない。なぜなら、怖いからだ。
「人はこわいものです」
鍋島さんが言う。目の中に水たまりを作りながら、言う。この人は死にたがっている。どうしても誰かに殺されて死にたいらしい。だから私のような精神異常者に語りかけるのだ。
「どう、怖いのですか?」
私が訊く。
「なにをしでかすかわからない。当たり前のことですが」
「鍋島さんも、なにをしでかすかわからないのですか?」
「そうです。もちろん、あゆみさんもね」
喫煙ブースにいた。
 間が空くたびに二人ともが煙を吸って吐く。吸って吐く。吐いて吸う。言葉も同じく。
「たとえば僕が、ナイフを隠し持っていて、それを今ここであゆみさんに向けるかもわからない。だけどもそれは、僕から見ればあゆみさんこそがそうなのかもしれない。それよりか、通りすがる人々すべてにそう言えることだ」
「以前、鍋島さんが......人を信じられないと言っていたのは、そういうことですか」
「そう......かもしれないね。ただ、あゆみさんだけが、信じられないわけではないこと、わかってほしいのかな」
「はあ」
 そうして言い残し、灰皿に火をおしつけ、くゆる煙もそのままに鍋島さんはドアを押し開けた。苦しそうな、表情をしながら。
 異常な人生には、数奇なストーリーが付き物なはずだが、私はなんら変哲のない毎日をただ狂った頭のまま送っている。「精神障害者」というパスポートを手に、今日も元気にやっている。地域活動センター、無料で利用できる「障害者の居場所」だと謳っている部屋に、今日も向かった。
 そこには頭のおかしいやつや身体に障害がある人が集っていて、どうでもいい話やくだらない話を吸いもせずにただ吐き捨てている。時間を潰しにきているだけの私に、ごく稀に話しかける男や女。お前らは人間でなんかないのだ、と誰かに言われた通り、人間の皮をかぶっている。みんな、私も。
「真奈さんは、今日は何するんですか?」
水無月さんが、問いかける。問いかける時に首を傾げて手を差し出すのはこの女の癖だ。髪の毛が長く鬱陶しい顔つきをしている。私は優しい、と表情に書いてあることにすら気づかない、図々しい女だ。
「今日も何もしません」
いつも通りの答えを放つと満足そうに頷いた水無月さんが、ソウナンデスネ、と眉をしかめて先ほどまで座っていた椅子に向かった。そのあとに起こる笑い声が、たとえば本当に私を嘲笑うものであったとしても、私は今日も何もしないのだ。
「いい加減にしろ!いい加減に、しろ!死んでしまえばいいんだ」
小さい声で、聞こえるような聞こえないような声を呟く男性が隣に腰掛けている。
マスクを毎日していて、たぶん私より重い幻聴に悩まされている彼は、戦っている。いいなあ、と思う。わかりやすく悩めて、いいなあ。と思う。
 ため息すら噛み殺して、私は表情を静かに変えない。ずっと、無になる、石になる、終わる時が来るのをただ待つ。
「苦しそうですね」
 鍋島さんが、言う。喫煙所以外で語りかけることは滅多にない。私はそちらを向けず、頑なに黙り込んでいる。すると、独語をしていた彼が......嗚咽をもらした。
 不意に横を向けば、鍋島さんは彼に話しかけていて、彼は満ち足りているような涙を溢していた。
 いいなあ。と思う。強く、強く。
 私にも、欲しい。そんな風に、強く。