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『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたか』 尽くすべき人事は常にある

『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』,ジェームズ・R・チャイルズ著,草思社発行,2006年第1版発行

 2000年に書かれたこの本では、50以上の深刻な技術事故が取り上げられ、タイトル通り、事故に至るまでに関係者がどんな行動を取っていたのかが描写されている。淡々と、だが詳細に。
 テーマに沿って選ばれた複数のケースが並列して語られたり、文章と簡単な図解だけで混み入った機械の配置や設計を説明しようと頑張っているので、正直なところ読みにくい部分もある。だが、一度読み始めるとページをめくる手を止めることができない。

 それぞれの事故に関わっている人々の行動記録は、「取り返しのつかない事故が起こってしまった」という未来を知っている目からは、叫び出したくなるような場面の連続である。
 だがこの本の記述は、決して彼らの行動を神の目線で裁くことはせず、また逆に過度に感情移入して庇い続けるのでもなく、まさに「透明な伴奏者」となって追い続けていく。
 そのために、ひとつひとつの行動が、その時点では何がしかの意味を持っていたことが伝わってくる。たとえその「意味」が、コストを切り詰めるとか時間に追われているとか疲れ切っているので早く済ませたいとかの、全然崇高ではないものであったとしても、その卑俗さはまさにわれわれの日常の自然な欲求そのものであって、それに礫を投げられる者など存在しない。

「最悪の事故に悪者が存在しない」という状況は、気が滅入るものだ。

 そして「悪者が存在しない」という本質に突き当たっても、著者は決して絶望しない。事故を防ぐためにできることはあるし、事故に遭ってしまってさえもできることはあり、しかもそれは大きな組織の意思決定レベルから個々人の行動に至るまで様々なレベルに存在している。だからそれをやっていくべきなのだ――という強い決意を繰り返す。

 特にこの本のスタンスで重要なのは、ゼロリスクが不可能であるという前提に立った上で、「それでも何をすべきか」を、曖昧な道徳論に逃げずに追求したことだと思う。

★★★

 事故を招く要素。それは、
「複雑なシステムの現状を直接把握する手段がない設計」
「冗長性が削られ安全マージンが少ない状態」
「確率の低い出来事は起こらないと思い込む」
「警告メモを書いたり同僚に愚痴を言ったりするだけでそれ以上の対策をしない」
「また、送られてきた警告メモを無視する」
「ひとつの仮説に囚われて他の仮説が見えなくなる」
といった、わかっているはずなのに私達が必ずと言っていいほど犯している言動だ。
 さらに加えて、
「トラブルになりそうな問題点は全て隠蔽する」
というやり方でとどめを刺す。

 正直なところ、これらを指摘しているのは本書が初めてではない。これを読んでいるあなたも、上記のような指摘をどこかで読んだことがあるはずだ。
 だが私達は「わかっているはずなのに」これらを意識から追い出している。この本は、それをまっすぐに指さしてくるのである。

★★★

 福島第一原発の事故や、COVID-19パンデミックの対処対策を考えるという場面において、特に連発されたフレーズが、「正しく怖がる」というものだ。
 寺田寅彦の言葉がおおもとになったこのフレーズは、ある種の口当たりの良さがあることもあって、その後あらゆる人が使うようになったが、その大半のケースでは、寺田寅彦の真意とは全然関係ない
「私と全く同じように怖がれ」
という意味でしか使われなかった。

 特に「ゼロリスクなんて不可能だから、リスクをある程度許容しなければならない」というスタンスで言われる場合、その一見まっとうに見える言葉の裏で、実際に伝えようとしている感情は
「私の感情を乱すな」もしくは「私に嘲笑されて私の自尊心を満足させろ」
というものだった。
「リスクを許容する」という言葉の内実は「リスクのことは考えないことにする」「実際に害が起こったら、いろんな理屈をつけて自分以外の誰かに負ってもらう」「それが不可能だったら自分以外の誰かの責任にして怨む」という代物でしかなかった。
 もっと悪いことに、そもそも言葉が意味することを吟味などしていなかったケースが、大半だったと思う。

 つまり「ゼロリスクに逃げずにリスクを許容して正しく怖がる」という言葉を振りかざすスタンスは、まさにこの本が繰り返し指摘する、最悪の事故をもたらす正常化バイアスと想像力の欠如そのものだったのだ。

「正しく怖がる」と私がお題目のように言った時、一体どれだけ、実際に起こり得る問題を最悪ベースでまで想定し、それを防ぐ方法を考え、起こってしまった場合の対処の具体案を形にしていただろう?
 この本を読みながら、警告されている様々な災害や事故に対して、自分がどれほどいい加減に逃げているかを、砂を噛むように痛感せざるを得なかった。

 著者は決して、「だからもうおしまいだ」という思考停止には逃げ込まない。
 事故を招くあらゆる要素を丹念につぶしていく方法はあり、それは実現不可能な理想論ではなく現実的に可能であったという事例と証拠をあげ、どこまでも誠実に証明していく。
 現状を把握できるような設計を心がけ、
 コストが高く見えても厳しいテストをかけ、安全マージンをとり、
 確率が低くても必ず事故は発生するという恐怖心を持った前提で対策を練り、
 組織のあらゆるレベルで警告を受け容れ、それを活用できるような運営をし、
 パニックに乗っ取られないように冷静な判断ができる時間的余裕の確保を最優先し、
 最後に、不都合であっても情報を全て公開する。
 これらをクリアして初めて、「リスクを取ってチャレンジする」ことができるのだと訴え続ける。

★★★

 逆に「そこまでやりたくないからリスクは取らないよ」というスタンスを取ることは、現代社会においては不可能であるということも、著者は繰り返し述べている。
 現代社会という複雑なシステムの中にしか暮らしの場がないわれわれは、「ただまっとうに生きていく」だけでさえゼロリスクを夢見ることは叶わない。
 だからわれわれは、「人事を尽くして天命を待つ」とうそぶきながら、実際には人事に背を向け、天命に甘え、想像力に蓋をするのだ。

 この本を読んで、「最悪の事故が起こるまで何をしていたんだ」と技術者たちを責めるのはたやすい。だが本当は、読んだ自分を責めなければならないのだろう。
 私は、起こり得るトラブルに対して、どれだけのことを想定し、どれだけのことを準備し、どんな結果を引き受けるつもりでいるだろう? それを考え抜いた後でなければ、「運が悪けりゃ死ぬだけさ」と言う権利さえ、本当はないのだ。

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