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『ブラウン神父の秘密』 許すということ 名刺代わりの12冊その4

『ブラウン神父の秘密』,G.K.チェスタトン著,東京創元社発行

みなさんが罪人を許すのは、その人の咎が犯罪ではなく習俗にすぎぬとお考えになるときだけなのだ。(中略)あなたがたが人を許すのは、許すほどのことが何もないからなのだ。

マーン城の喪主

『春にして君を離れ』の感想で、ジョーンを責めることができないと書いた時に、そうだ、私の根っこにあるブラウン神父の言葉について書いておかないと、と思ったのだった。

 G.K.チェスタトンは逆説を巧みに用いた推理小説の作り手として有名だ。特に短編は、クリスティと同じく人間心理の穴を突くもので、個人的にはクリスティよりも切れ味が鋭いと思う。
 クリスティよりもイマイチ人気がないというか、マニアックな印象を抱かれてしまっているのは、この鋭すぎる切れ味によって、感情移入できるような人間ドラマにならず、人さし指で冷ややかに指されているような読後感になるからかも知れない。クリスティの小説には、苦々しい内容やアンハッピーエンドであっても、どこか熱っぽい甘さみたいなものがある。そう、『春にして君を離れ』であってさえもね。

 チェスタトンの、キリスト教カトリックを持ち上げるあまりの、他宗教と非西欧民族に対する偏見と蔑視については正直辟易してしまうのだが、私はその辺は頭の中で取り除いて読んでいる。
 そして、私はブラウン神父シリーズを推理小説として読んでいない。肥大しがちな自意識への冷や水として読んでいるのである。

★★★

 私の中に最も強く斬り込み、何度も再読する短編が、この『ブラウン神父の秘密』に収録されている「マーン城の喪主」である。
 ある時から城の奥深くに閉じこもり、自らの罪を悔いて世間と縁を切ってしまったマーン侯爵を、友人たちが訪問して日常に引き戻そうとするのだが、ブラウン神父はそれを止めようとする。「罪を許さないなんて、神父にあるまじき振る舞い」と非難する人々の前に、マーン侯爵が現れ、神父が見抜いた真実を伝えるよう言う。こうして、ブラウン神父は彼らに語るのだが……。
 というあらすじだが、この短編のハイライトは、最後にブラウン神父が鋭い舌鋒で告げる、「許す」「罪を悔いる」ということに対するわれわれの欺瞞だ。

 友人たちは当初、マーン侯爵の罪を許しますよと軽々しく言っているのだが、真実を知ると手のひらを返して「人間の慈悲には限度がある、けがらわしい」と言い出す。
 ブラウン神父は当然そうなることを予期しており、冒頭に引用した言葉を述べる。人が「罪を許す」のは、始めから罪がないと思っていたからに過ぎず、実際には「許し」てなどいない。本当に許しがたい罪を許すことこそ、人間の慈悲と、キリストの慈悲の違いなのである。

 ブラウン神父は冷ややかにその違いを説明するが、実は非難してはいない。神父は、それが人間の限界だということをよく知っている。彼が非難するのは、神にしか成しえない慈悲を安易に人間のレベルに引き下げて、自分の好きなようにやっている行為にその言葉を当てはめることなのだ。

あなたがたは、ご自分の趣味に合った悪徳を許したり、体裁のいい犯罪を大目に見たりしながら、桜草の咲きこぼれる歓楽の道をずんずんお歩きになるがよい。われわれを夜の吸血鬼のように闇の中に置きざりになさるがよい。そうすればわれわれは本当に慰めを必要とする人たちを慰めます。この人たちは本当に申し開きの立たぬことをしているのです。本人も世間も弁解の言葉を知らぬようなことをしているのです。それが許せるのは司祭以外にはないのです。

マーン城の喪主

 そして最後に神父は、一同に、「あなたたちは罪を犯さないだろう。しかしもしも犯してしまった立場にいた時、その罪を告白して悔いることができるか?」と問う。その問いに、誰も答えることができず、立ち去ってしまう。

★★★

 罪を認める。罪を償う。罪を許す。
 小さい頃から、私は何となくこれらの言葉を大切に思う一方で、どこか割り切れないものを感じていた。犯罪者の報道などで被害者遺族が泣きながら「罪を償ってほしい」と言う光景に、痛切なものを感じながらも、「一体どういう状況になったらこの人たちは罪が償われたと思えるのだろう」という疑問を振り払うことができなかった。
 その疑問に対して、チェスタトンはブラウン神父の口を借りて言う。償いも許しも、神の御業であって、人間が心がけさえあればできるようなものではない、と。
 ともすれば私は、「許す」「償う」という言葉を、感情のゼロサムゲームに対して使ってしまう。人間同士が相対して、何か大切なものをやりとりしているような錯覚に陥る。
 だが人間は「許すほどのことが何もない時にしか許せない」のだ——という考え方を目の当たりにして、私は、それまでの人生で味わった様々な理不尽に思える苦しみ(幸運にしてその総量はかなり少ない方だったけれど)に対して、その取り返しを求める虚しさに辿り着いた気がするのである。許す、償うとは、個々の人間同士のやりとりではなく、たぶん何かもっと漠然とした大きなものを媒介したものなのだ。その漠然とした大きなものを、神と呼ぶ必要は必ずしもないのだけど。
 そして同時に、自分は「罪を告白する」ことができるほど、人間の器が大きくないということも認めざるを得なかった。

★★★

『ブラウン神父の秘密』は短編集だが、「罪を犯す人間の心」が全編を通じたテーマになっている。善良なるわれわれの中にも悪があるのだ、という真理は今となっては誰もが言うようになったけれど、それを本当に実感するのは難しい。この短編集を読んでいても、実際の犯人の心境を体感できるとは限らない。
 だがブラウン神父の「桜草の咲きこぼれる歓楽の道をずんずんお歩きになるがよい」という言葉は、私の心に刺さり、大きな棘となってずっと残った。自分が「許す」と言っている時、そこにあるのは「許すほどの罪など別にない」という意味でしかないのだということを、意識するようになった。

 私は良くも悪くも、メタ認知をしてしまう方だと思うのだけど、そうなった根っこのひとつには、ブラウン神父の姿があるのかも知れない。

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