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『人間をみつめて』 存在の仕方を先行させること 名刺代わりの12冊その1

『人間をみつめて』,神谷美恵子著,河出書房新社発行,2014年初版(1974年『新版 人間をみつめて』朝日選書を底本)

『人間を見つめて』は、大きなくくりで言えば、いわゆる「生きがい論」に入る著作だと思う。

 著者の神谷美恵子さんがこの本の前に書いた『生きがいについて』は、日本における生きがい論の先駆け中の先駆けであり、「生きがい」という言葉そのものを人口に膾炙させたとまで言われる。ストレートで人目を惹きつける扇情さがかけらもないタイトルからうかがえる通り、どこまでも誠実な内容であり、多くの人が座右の書として挙げる。私も読んだし、学ぶところが多かった。

『生きがいについて』は、難病や障害や貧困やマイノリティ性などによって「ふつうの幸せ」を望むのが難しい人たちが見出す生きがいについて取り上げ、そこから「生きがい」の持つ普遍性を逆照射する試みである。
 明らかに「普通には生きづらい」彼らが、それでも何故生きがいを見出し得るのか、そして時には神々しいまでの生命力を発揮できるのは何故なのか。
 1966年の本が、非常に今日的なものとして受け止められるのは、この重いテーマ所以である。社会全体として、このテーマに腰を据えて取り組まねばならないという問題意識は強い。

 だが、私にとっては、『生きがいについて』の後に書かれたこの『人間を見つめて』の方が、「自分の本」という感覚を強く覚える本だ。
 それは『人間を見つめて』が取り組むのは、そこまで強い試練に遭っている訳ではない、とりあえず衣食住に困る恐れがなく健康にも恵まれた中流の人が、しかし往々にして「生きがい感のなさ」に苦しんでいるという問題だからである。
 つまり、今のところ衣食住と健康を、幸運にも賜っている私にとって、より身近で、恐らくはより切実な内容なのだ。

 そして、私がこの本から受け取ったものは、簡潔に言えば
「充実感よりも今存在していることへの畏敬」「高揚感よりも静かなよろこび」
であり、それらを自然に自分の内に育みながら生きられたら、生きがいや使命といったものは後からついてくるのだ――という表現になる。

★★★

 神谷さんは、様々な事例や哲学の論考から、人間には生きがいを求めてやまない本能のようなものがあることを示している。何よりも、生きがいが人間の大切な尊厳の源であることを見つけ出したのは、他ならぬ神谷さん(の前著)だ。

 だが、とこの本はあえて振り返ってみようとする。本当に生きがいは何を措いても「追求するべき」ものなのだろうか?

 たとえば、人間にとって食べることが欠くことのできない営みであるからと言って、食べることが人間の存在意義にして至高の目的であるとは限らない。食の喜びをひたすらに追求することで、自他の人生が破壊されてしまうこともある。
 同じように、生きがいを求めるのが人間の自然な心の在り方であり、かけがいのない尊厳だとしても、それは「生きがい感を追求することが人間の存在意義」ということを意味しない。
 むしろ、生きがいや使命感の追求は、逃避や執着に容易に転化してしまう。うっかりすれば、人生の恩恵たりえるはずの「生きがい」によって、かえって人生を破壊する逆説に陥ってしまうのだ。

 なぜ生きがいの追求がむしろ害となってしまうのか、そのヒントは、神谷さんが「生きがい」という言葉とは別に、「生きがい感」という言葉を使っていることにある。

 神谷さんの『生きがいについて』を多く取り上げた評論家の若松英輔さんも、『「生きがい」と出会うために』という評論において、この言葉の使い分けについてとりあげている。
 若松さんは、神谷さんが「生きがいとなる対象とそれに向かう心の動きとして使い分けようとした」と考え、だがそもそも神谷さんが見出した「生きがい」とは、心から独立した客体ではなく、生命のようにダイナミックに変わっていくものであったので、この二つは次第に融合していき、最終的には著作のなかでこの二つの使い分けはうまくいかなくなったと指摘している。

 その解釈は実際その通りだとうなずきつつ、私はあえて、『人間をみつめて』においては、「生きがい感」には別の側面が備わったと考えたい。それは「感」という言葉通り、ある存在が生きがいがある状態であると、自分や他人に「感じられる」か否かである。
 だが「生きがいがあると自認・実感していること」と「生きがいが存在していること」は別なのではないか――というのが、この本の視点なのだ。

★★★

 人間の生きがいとは、決して自分ひとりで完結して存在しえない。
 身近な人からの感謝であれ、他人からの承認であれ、集団への帰属意識であれ、未来世代への行動であれ、真善美の追求であれ、神への奉仕であれ……そこには必ず、自分ではない何か、自分を越えた何かが存在している。

 だが生きがい感を追求しようとすると、この「自己を越えたものとの交感」という側面が見失われることが多い。生きがい感は自分の感覚で計るものなので、まるでスピードメーターだけ凝視するドライバーのように、自分の感覚以外への認識がなくなってしまうのだ。
 生きがい感の罠は、自分の認識・自分の感覚を絶対視することである。
「生きがいがあると思える生だけが意味がある」「私は生きがい感を感じているから尊い存在だ」「生きがいのない私には生きる意味がない」――生きがい感を生きがいそのものと誤謬すれば、容易にこういう「生命の選別」に陥ってしまう。

 だが自分の狭い認識で捉えられるものは、本当に世界を正しく映し出しているだろうか?

  かりにある人の一生が、ただ苦しみを感じるだけに終始したとしても、あるいはただ、「廃人」で終ったとしても、その人の生がかけがえのないものである、という視点もありうる。
  その視点とは、「永遠の相のもとに」人間を眺めるまなざしのそれであろう。このまなざしのもとで各人の歴史的時間に意味と役割とが与えられているとすれば、ある人が主観的に生きがいを感じるか感じないかは、そうたいした問題ではなくなる。

『人間をみつめて』第二章人間の生きかた 三、欲望について

という神谷さんの言葉は、ある意味では限りなく優しく、別の意味では恐ろしく厳しいものである。

 生きがいというのは、誰かに喜ばれたり、有用な業績を成し遂げたり、それが果たせずとも有用性のために努力したりすることだとわれわれは思いがちだけれど、そうではない。
 むしろ先に、今ここに自分が存在している奇跡に感謝し喜ぶことに立ち返ること、それも必死に強いられて苦行としてそう在ろうとするのではなく、自分の生が外から内から支えられてようやく成立していることをしみじみと実感することの方が大切ではないか。そこに至ることができれば、生きがいというものは後から追いついてくる――というのが、神谷さんの見出した結論である。

★★★

 ……とまぁ、ごく粗く書いてしまったのだけれど、『人間をみつめて』の中には、生きがいの分析に留まらず、自己とはどういう時に立ち現れるものか、自己を越えた何かとの関係とはどんなものか、安らいだ生き方とはどういうものなのか、存在意義とは何なのか、といった古くて新しい考察が詰め込まれている。

 1971年にこれが書かれていることを思うと、「現代の生きづらさ」とされていることの多くが、もっと古くから存在しているものであることに気付く。であるなら、ネットやSNSやAIやポストトゥルースやVRといったものにその原因を求めるのは、枝葉にとらわれた視点なのかも知れない。(もちろん無視するのも賢明ではないのだろうが)

 私にとっては、「経済的に自立しなければならない」「社会人としてコミュニティに有用な貢献をしなければならない」という強迫観念に対する解毒として作用した本のひとつである。
 その結果として、今の私が善い存在として生きているのかと問われると、正直そんな自信はないけれど、それでも今とは違う生き方をした自分と比較するなら、今の私の方がましだと思う。そう断言できるだけでも、ずいぶんありがたいことではないだろうか。

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