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ピック・スリーと東京物語


 ただ自分の素直な思いを書くだけで、暴露話と受け取られてしまう境遇の人がいる。

★★★

ピック・スリー,ランディ・ザッカーバーグ著,三輪美矢子訳,東洋経済新報社発行,2020年刊

 あのFacebookを立ち上げたマーク・ザッカーバーグの姉、ランディ・ザッカーバーグが書いた本があると知って、もう単純に好奇心のみで読んだのが、この「ピック・スリー」だ。
 内容は、しごくまっとう、かつ有用でユニークな自己啓発本である。仕事、家族、友人、運動、睡眠、自分の中にある様々な要素や役割の、全てを完璧にこなすことはできないのだから、毎日その中で「3つ」だけ注力して、それ以外のことはその日は忘れよう、その日選ばなかったものは他の日にピックしよう。エッセンスはそういうものになる。

 その本筋は非常に役立つ良いアドバイスなのだが、やはり下世話な人間としてはどうしても、脇道の方の、「Facebook創業者を弟に持つ女性の暮らし」という部分に目がいってしまうのである。

 彼女はマーク・ザッカーバーグとともにFacebookのスタートアップにフルコミットしていた創業メンバーのひとりであり、その後に自身が別の会社を起業するにあたっても非常に良好な関係で行った人なので、ドロドロ愛憎劇みたいなものは一切ない。
 加えて彼女自身の人生や夫とのロマンスもかなりドラマチックなので、途中からFacebookの8文字はすっかり忘れてしまい、ランディ・ザッカーバーグという波乱万丈な生き方の女性の物語に見入ってしまう。
 ザッカーバーグ一家は非常に関係良好な家族で、医者としてのキャリアを止めて専業主婦になったランディとマークの母も、自己犠牲的な奉仕者ではなく自律・自立した女性として自分の意志で人生を構築する存在として登場する。

 Facebookという企業に対する毀誉褒貶、感情は(社会的にも個人的にも)色々あるけれど、それはそれとして、ここで描かれる人間としてのザッカーバーグたちは、とても素敵で明るい気持ちを抱かせてくれる家族だ。

★★★

 この本を読んでいて、私は、とある別の本、別の人物のことが脳裏に浮かんでしょうがなかった。
 それは、『サザエさんの東京物語』を執筆した、長谷川洋子である。

サザエさんの東京物語,長谷川洋子著,単行本は朝日新聞社,文庫本は文藝春秋社

「サザエさん」の作者・長谷川町子の家族が、かなり独特のものであったことは、ユーモアあふれる長谷川町子の自伝『サザエさんうちあけ話』でよく知られていると思う。
 この『サザエさんの東京物語』は、長谷川町子の妹である長谷川洋子が執筆したエッセイで、その内容は『うちあけ話』とは微妙に様相が異なっている。その「異なる様相」は、決して微笑ましい明るいものばかりではない。
 視点や書かれた時期の違いというだけでなく、新聞連載としてあくまで楽しい読み物を意識して描かれた「うちあけ話」では、書くことはできなかったであろう内容も多い。

「うちあけ話」では「パワフルスーパーマザー」というコミカルな描かれ方をしていた母親が、キリスト教原理主義的な言動を辞さず周囲を振り回す凄まじい人であったことや、長谷川町子が「妹とは仲がいい」と自認しつつも洋子の人生に結構キツい介入をしてくるくだり。
 そして何より晩年に洋子が、ただ「スープの冷めない距離でひとりで暮らしたい」と申し出ただけなのに、姉二人から絶縁されてしまうに至る話も出てくる。
 なので、この本にある種のショックを受けて「読まなければよかった」と思う人もいるようだ。時々レビューや感想でそういうものを見る。

 だが、長谷川洋子がこの本を、いわゆる「長谷川町子の真の姿を暴露する」感情に基づいた動機で書いた訳ではないことは、数ページ読めばすぐに伝わってくる。
 清明で穏やかながら、細かいところまで観察の行き届いた文体で、静かにつづられる日常風景は、彼女の家族への愛によって隅々まで照らされているようだ。
 彼女の執筆の動機はあくまで、あの荒波のような時代を生き延びた女性としての、姉妹と母親と自分の人生を、神話化・伝説化は拒否したうえで、書き留めておこうというものであるのだろう。

 一方で、ランディ・ザッカーバーグの書く、からりとした家族への言及と比べると、やはりどこか重たい濃密さがついてまわる本である。
 ランディは色々なところで、「マーク・ザッカーバーグの姉」としか扱われないことへの批判をユーモラスに語るのだが、この本には「長谷川町子の妹」という扱いをされることへの、〝世間への批判〟は驚くほど少ない。
 この一家の構成員は、この時代の一般的な女性の生き方をしなかったことに対する有形無形の攻撃に対する防衛として、「サザエさん一家」としてのアイデンティティに適応せざるを得なかったのかも知れない。

 私が読んでいて特に気になったのは、長谷川町子の姉で姉妹社をずっと経営し続けた長姉のまり子の存在だ。
 彼女には絵の才能があり挿し絵画家として順調だったのだが、突然母親が姉妹社の社長になれという鶴の一声を発して、彼女の画家としてののキャリアを鎖してしまう。
 町子には当然ながら偉大な漫画という作品があり、洋子は(先立たれてしまうが)夫と子供がいてさらに後に自らの会社を興すのに比べて、まり子は結婚直後に夫は戦争で亡くなり、画家の道も失われてしまっている。そう考えると、彼女にとって姉妹社、ひいては「三人姉妹が常に同じところにいる環境」というものが、大きな意味を持ってしまったのではないだろうか。
 洋子と姉二人が疎遠になってしまう過程について詳細なことは書かれないのだけれど、何となく私は、まり子が抱いていたのかも知れない苦しみに大きな要因を感じてしまうのである。
 まぁ、こういうことは、外野のいい加減な物言いだから、当たっている可能性は低いのだけれど。

 ランディ・ザッカーバーグは、マークとともにFacebookのスタートアップで文字通り心身を削って駆け回ったが、そこに自分のアイデンティティを固定することはなかった。それについて、マークやその他の家族が不満に思うこともなかったようだ。
 もちろん、時代も、国も、それまでの置かれていた状況も全く違う家族の物語だから、同じような経過をたどるはずはないのだが、それにしても、「超がつく有名人がいる仲良し家族」という同じ言葉で表せるこの二つの家族が、こうまで違ったものになるのか。
 そして、終始明るく描写されるザッカーバーグ一家はもちろんだが、晩年の哀しい別れはあったにせよ長谷川一家もやはり幸福な時間を共有した稀有な奇跡であったことを思うと、幸福な家族の在り方というものには無限のバリエーションがあるという真実が、胸にしみてくるのである。


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