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『春にして君を離れ』(その2) 悪者を作って結託してしまう姿

 我ながら、悪意の塊みたいな読み方をしてしまったなと思う。

『春にして君を離れ』,アガサ・クリスティ著,早川書房発行,2004年4月刊


ジョーンを悪者にすることで安定する家族

 今回読み直して、ジョーンを取り巻く他の家族に、嫌悪感を抱いた自分がいたのが意外だった。

 いや、ロドニーは元からいけ好かない。自分を「ジョーンに抑圧されて天職を見失った哀れな男」という被害者ポジションに置き、レスリーとのプラトニック・ラブ(これもジョーンという安全圏があるからこそ盛り上がったものだろう)を逃げ場所にし、妻のリカバーをすることで巧みに子供たちから愛情を確保する、あの立ち回り。
 私が彼にうんざりするのは、私自身が、自己保身に巧みで上手に立ち回る、ジョーンなど及びもしない「善の皮をかぶった悪」だからである。ロドニーへの嫌悪は私の影の投影であろう。

 だがこのロドニーへの嫌悪は、再読した今回、ジョーン以外の家族全てに広がっていった。どう見ても抑圧の被害者、犠牲者でしかないはずの彼ら彼女らに、私がうんざりしたのは何故なのだろう。

 選択の責任からの回避をすべてジョーンに押し付けて、「ジョーンに抑圧されたからこうなった」「でもお父さんがいるから大丈夫」と解釈しつつ、ジョーンがもたらす社会的安定と安楽だけはすくい取っているように見えてしまった。
 彼らは、ジョーンという巨大な壁にぶつかることで、かえって自分の意志、在り方を知る。エイヴラルは自分の不倫の偽善を噛みしめる。バーバラは子供っぽい反抗心のまま結婚した報いを受けるが、夫となった人がよい人だったので(何せジョーンの眼鏡にかなったのだ)ジョーンの干渉に二人して立ち向かうことでかえって夫婦の絆を深める。トニーは父親の挫折した夢を自ら引き受けるようにして、南アフリカで農園を始める。この人たちは、ジョーンに抑圧されない人生を歩めたとして、その裏側にあったであろう苦悩に正面から向かうことができたのだろうか。
 まあそんなことを考えることこそ、まさに「お節介」ではあるのだが。それに、成人した後はともかく、子供という無力な存在だった時期に、そこまでの思考を要求するのは無茶というものである。

犠牲者として生きるラクさ

 だがそう考える時、やはりもうひとりの「大人」であるはずのロドニーの、勇気のなさではなく「弱さに偽装した保身と邪悪さ」が恐ろしくなる。

 ロドニーは、農場の夢を「ジョーンに説得されて」あきらめた。逆にジョーンを説得することもしなかったし、反対をバネにして夢に挑むこともしなかった。レスリーに愛していると言って結ばれることもなかった。
 彼は自分が「天職」につけず、「男であって男でない」生ける屍になったのは、ジョーンに負けたせいだと思っている。
 だが「休暇に時々農場に行って楽しかったから農場生活は素晴らしいに違いない」なんて子供っぽい夢を得々と語る痛い場面からも、彼が実際には農場経営などできそうにないのはすぐにわかる。そもそも、経営が失敗した時の地位階級の没落や経済的困窮の対策を真剣に検討しているようにも見えないし、本当にそういう状況になったら精神的に耐えることもできなかったろう。
 そしてレスリーが美しく見えるのは現実のレスリーを見ているのではなく彼の理想を投影しているからで、実際にレスリーと結婚したら泥沼のような貧しい生活に苦しんだあげくレスリーを憎みすらしたかも知れない。
 だが、彼がこれらの現実を直視することはない。

 ロドニーは、ジョーンと生きることで何を得たか。安定した職、親族の尊敬と仲間意識、裕福な経済状況、優しく賢い子供達、何よりも自分を「素晴らしい存在」と持ち上げてくれる若々しい妻。
 そういうものが夢よりも大事だと言いたいのではない。不安定な職に身を投じて大失敗して親族から嘲笑われて貧乏になって子供に失望されて妻に愛想を尽かされても、そこに本人にはわかる栄光と勝利と感動がある、という生き方だって存在する。それこそレスリーが、人から白い目を向けられても誇り高く生きていたように。
 私が言いたいのは、ロドニーは自分から安定を選んだのであり、トレードオフとして夢を差し出したに過ぎない、その上で「でもあの夢も欲しかったなぁ」と物欲しげに考えているということだ。
 彼は勇気がなくて選択できなかったのではない。あれを選んだらこれは選べない、という当然の法則に従いたくないだけなのだ。

 しかも永遠に夢のまま、挑戦することをしなかったからこそ、ロドニーは挑戦したけど失敗した無能な敗残者ではなく、「抑圧された可哀想な生ける屍」という甘い犠牲者のポジションにいられる。レスリーとの関係も美しい思い出のまま保存できる。

 これら全ての認識のすりかえを、ロドニーは何の罪悪感も悪意もなく行っている。何なら、妻を守り子供を守りレスリーを愛する美しい行為だと思っていて、それを子供たちにまで信じさせて、さらには子供たちを自分の願望のダシにしている。
 トニーが農園経営を始めるのは、ロドニーに同情したのがきっかけのように描かれている。バーバラの不倫と自殺未遂も、ロドニーの無意識の願望を代行してしまったものだとは、さすがに言いすぎだろうか。

子供を本当の意味で「支配」したかったのは誰か

 何よりぞっとさせられるのが、エイヴラルとロドニーの関係である。

 多くの人が引っかからずにはいられない部分だけれど、ロドニーはエイヴラルの不倫を止める大立ち回りをした顛末のことを、ジョーンにも自分自身にも、「僕(たち)が勝った」と言っている。
 この一言でもわかるように、ロドニーはエイヴラルを尊重して本当に幸せになってほしいから説得したのではない。むしろ、エイヴラルを支配し自分の価値観が上だということを知らしめるために、あの状況を利用したのである。

 エイヴラルとロドニーが言い合いをする場面は、読み返すのも嫌になるようなヒリヒリ感に満ちている。山田太一が機能不全の家族を描くドラマで見せる、家庭が崩壊する決定的場面にみなぎる、あの嫌な空気である。

 エイヴラルが不倫をしたのは、恐らくカーギル博士に惹かれたということ以上に、「配偶者を放棄して尊敬する人とやり直せたら」というロドニーの願望の代行である。
 そして同時に、自分の家庭の不条理への強い反発によるものなのだろう。その不条理とは、ジョーンが他人の価値観を理解できないことによる抑圧だけではない。それに唯々諾々と従いながら、自分の精神的利益はちゃっかり確保するロドニーの振る舞いをも指している。
 わざわざエイヴラルがジョーンに対して自分の不倫を公開し「ふたりでどこかよその土地に行く」などと宣言したのは、この行動によって「一見平穏な家族」を破壊して構成者に再考をうながしたいという、不良少年のような、本人にとっては切実な思いがあったからだと思う。
 説得するために「二人で話そう」というロドニーに、「お母さんにも聞いてもらいたい」とジョーンの同席を求めるエイヴラルの真意は、ロドニーが言ったように怖いからというよりも、ジョーンがロドニーの偽善を目の当たりにしてショックを受けることを期待してのものではないか。

 だが、年季の入った「隠微な支配者」ロドニーの方が一枚上手だった。彼は、あきらかに本当はジョーンに言うべき呪詛を、巧妙にエイヴラルの不倫を止める言葉に偽装して、エイヴラルに放つ。ロドニーへの盲信と愛に目がくらむジョーンには、その事実がわからない。
 ロドニーは、自分の呪詛の存在を明るみに出しつつ、自分の優位性と安全を守り抜くことに成功した。これが家庭というもの、夫婦というものだという呪われたロールモデルを、強烈にエイヴラルに叩き込んだ。自分の人生を賭けた一大決心による破壊的行動ですら状況を変えられなかったことで、エイヴラルは敗北し、ロドニーに従わざるを得なくなったのだ。
(もちろん、この行動が戦術として本当に適切なものだったのかという問題は別にあるけれど、「子供」のエイヴラルにはこれが限界だったろう)

 こう考えてみると、ジョーンは「おせっかいで迷惑な困った母親」だが、ロドニーは「完成された毒親」だと思う。しかもそれが一見してわからないほど巧妙な毒の注ぎ方なのだ。
 子供達は、抑圧的で迷惑な母親からかわいそうな父親と自分たちを守ろうと一致団結している。でも本当に戦うべき相手はジョーンだったのか。確かにスカダモア家の機能不全の、目に見える原因はジョーンの抑圧にある。だがそれを助長し、むしろ都合よく取り込んで自己防衛と他者支配に使っている本当の中心はロドニーだ。ロドニーの毒は完成度が高過ぎて、注がれた当の子供達も、明確にそれを毒と認識できていない。

連鎖は止まるだろうか

 物語のエピローグで、ロドニーは子供はみな無事巣立ったと感慨にふけり、三人の子供が皆それぞれに立派に生活していることを振り返る。
 この静かな描写からは、一見すると「子供達はジョーンの独善性を反面教師にして、より良い人生を歩き始めた」というのが物語の結末のように思える。

 けれど、ひとりの不完全で悪い人間の悪性に、全ての不全の責任を負わせて、そのことに気付きもしないジョーン以外のスカダモア家の構成員が、そのまま幸せに生きられるのだろうかと、不安になる。
 子供達はその後、それぞれの家庭で、それぞれの「スカダモア家」を再現するのだろう。バーバラはモプシーを無意識のうちに「よかれと思って」抑圧しつつ育て、トニーは自分の失敗を妻に尻拭いしてもらうのは当然と思って暮らし、エイヴラルは孤独に仮面夫婦を演じて生きていくのだとしたら。
 もちろん、人生には無限の可能性があり、バーバラやエイヴラルの夫はロドニーではなく、トニーの妻はジョーンではない。だから違う可能性は開かれているけれど。

 あるいはバーバラやエイヴラルは、自分がジョーンの立場になった時に、ようやく気付くのだろうか。
 自分たちが心から忌み嫌ってきた悪性は、ジョーンという個人に宿っていたのではなく、ひとつの価値観を「あるべきもの」として個人に強いる社会という巨大な天蓋や、たった数人の不完全な人間に全ての役割を担わせながら失敗を許さない孤立核家族というシステムや、「都合の悪いことは自分以外の何かのせいにして美味しい思いは確保したい」という自己の内側に宿っている狡さなのだと。
 そしてそれと戦うために必要な精神的支柱を、大好きな父親が巧妙に奪い取っていたのだと。
 その時、彼女らにはジョーンのような天啓が訪れるだろうか。その時にはジョーンはすでにこの世のものではないかも知れない。ジョーンの本当の気持ちを知りたかったと慟哭するかも知れない。
 そんな慟哭は、聖者ではない人間には耐えられない。きっと彼女らも、傷つきながら、一見すると淡々と、「元に戻って」いくのだろう。

 ジョーン自身について書いた話は下記に。


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