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『自立が苦手な人へ』 誰かに丸投げする前に

 自立のためにできること、するべきことは、お金とそれほど関係がない。

『自立が苦手な人へ 福沢諭吉と夏目漱石に学ぶ』,長山靖生著,講談社発行,2019年

 たぶん、タイトルに惹かれた人のかなりの割合が「求めてたのと違う」とガックリくる本である。それが著者の誠実さの現れではなかろうか。
 仕事が苦手/できない、生まれ育った家庭になじめない、新しい家庭を築ける見込みもない/築いてみたが破綻した、人間関係を作ることができない。そういう悩みを抱えている人に向けて書かれた本――という触れ込み、いや編集者の最初の企画意図通りのタイトルなので、タイトル詐欺の本ではない。

 ガックリくるのは、それに対する解が、複雑で曖昧だからだ。明日から変えられる!みたいなカタルシスがあんまりない。
 決して、打つ手ナシとあきらめている訳でもない。考えるべきこと、変えるべき心について誠実に述べている。ただそれが、気楽にできる訳でも即時的な結果に繋がりそうな気配もないというだけだ。

「そのままのキミでいいんだよ^^ 今まではキミを取り巻く世界が、キミが採っていた方法が間違っていただけで、キミが悪い訳じゃないんだよ^^ このやり方を採用すればきっと世界が変わるよ^^」という、傷ついている時には何よりも欲しい(し、実際ある程度は必要な)のだが、少々無責任でお気楽な癒やし感に乏しいので、読後怒りすら湧いた人もいるのではなかろうか。

★★★

 著者は、福沢諭吉と夏目漱石の文章や生涯のエピソード、そして江戸時代から明治の日本の社会情勢の変化を題材に、近代日本の知識人が「自立」という概念をどう捉えていたか、どんな利点があり逆にどんな罠があると警戒していたのかを、近現代哲学の概略を援用しつつ、絡まった糸玉から糸を抜き取るように、丁寧に説明していく。

 その結果、著者が見つけ出す「自立」の概念には二つの側面が生まれる。
 ひとつは、他人と出会い溶け合うほどの融合を経験しても、なお溶け切らずに残る、“他人との出会いを繰り返すことによって獲得される何か”。
 もうひとつは、他者や社会に対して交渉する基盤となる“条件を出せるだけの価値”を確保していること。
 これは、いわゆる「自分らしさ」や「金銭獲得能力」みたいな表現で提示されがちなものなのだが、著者が意味するものはそれほど単純なものではない。

★★★

 “他人との出会いを繰り返すことによって獲得される何か”――「自分らしさ」は、往々にして「個性を磨いて競走に勝ち抜こう!」という武器として扱われがちである。
 だが著者は、自分らしさを武器にする生存戦略に対して、疑問を呈する。
 なぜなら自分らしさとは、絶対的な価値を持つ尊いものだが、金銭に換えられないものだからだ。お金に換えるべきではない、という倫理の問題ではない。「金銭に換えることが原理的に不可能である」という意味である。
 自分らしさを追求することは、その人にとってかけがえのない、決して損なってはならない大切な活動であるが、他人にとって価値があるものではない。お金とは、自分と自分以外の存在との間で価値を交換させる道具だから、交換できない価値はお金にならない。

 逆に言えば、お金になろうとならなくとも自分をしっかり確立している人はいるし、そういう人は「自立」している、とも言えるのだ。
 大金を稼いでいても「自分を持っていない」人はたくさんいる。その中には「弱者だと見なされがちな属性でも自立しています!」と持て囃される人すらいる。
 そして死ぬまで自分を持たないで逃げ切れる人もいるが、逃げ切れずに呆然と「私の人生とは何なのだ」とつぶやくことになる人もいる。

★★★

 では、他者や社会に対して“条件を出せるだけの価値”の方はどうか。

 他者との交渉の基盤となる価値を持つ、ということを、著者は金銭獲得能力と同義には扱わない。
 金銭獲得能力は、努力すれば万人が得られる都合のいい力では決してなく、自分の力では変えようもない無数の要素に左右される代物である。だからこそ格差論や世代闘争に発展する火種となるのだ。
 
 著者は、金銭獲得能力が得られないこともある、という苦い現実について、ある程度は受け容れなければならないという立場を取る。
 これはもちろん、不公平や不平等を放置する言い訳として取っている立場ではない。
 変えるべきところを変えていったとしても、最後にはどこかに、金銭獲得能力を得ようのない存在が必ず生まれる。その現実から目をそらして、犯人探しや革命や自助努力で「全て解決」するような幻想にすがる危険を、著者は重視するのである。
 挙げ句に
「現実に背を向けて、仮想的万能感や純粋自我に逃げ込む」
「卑屈さや感情の爆発を、道具として使って、他者を操作し寄生する」
「他者からの援助を拒否し、ひたすら自分だけで何とかしようと無茶をする」
などの道をたどれば、情況は悪化するばかりになってしまうのだ。

 そういった自他を傷つける方法に逃げ込まないための著者のアイデアは、
「精神面での等価交換を成そうと心がける」
ことである。
 無償であれ有償であれ何かしてもらっていることに感謝し、自分ができることを探してやろうと努力してみる、努力している姿勢が他人からも可視化できるようにする。
 つまり著者のいう「(他人と交渉できるだけの)価値」というのは、自分を過大に見積もることも卑屈に過小評価することもなく、等身大の状態を受け容れた上で「その状態でできることを見つけ、それを成すのをあきらめないスタンス」のことである。
 それは、他人(他人の集合である社会)というものに対して、天使のように私を守るべきと甘えるのではなく、逆に悪魔のように私を搾取し悪意を向けるに違いないと拒絶するのでもなく、「あなたも私も同じ人間、善意も邪心も両方あるし、善行もあやまちも成す同じレベルの存在だ」という精神的な対等感を抱いて対峙することをも、意味する。

 これを実現するのは、カネを稼ぐよりもはるかに難しい、という人も多いのではないだろうか。
 等身大の自分の、欠点と長所と成し得る可能性を受け容れるというのは、言うは(あるいは頭で考えるのは)易く行いは難しの典型事例である。

 おまけに、社会が助けを求める弱者の尊厳を傷つけ踏みにじる事例も事欠かない情況で、弱者側に「そういう過去のあれこれは水に流して、他者の援助を求めていった方が、結局はあなたのためですよ」と言うのは、正しいが残酷なこともでもある。彼らに残された唯一の自由が、尊厳を踏みにじられた憎しみと怒りで自らを支えることだけ、という場面だってありうるのだ。
 著者は、そういう正攻法で解きほぐすのは難しい大変な相手には、専門の訓練を積んで技術とマインドセットを身に付けた、プロの資源をコストをかけて集中させるべきであると考えている。

 逆に言えば、そこまでいかずにまだ踏みとどまれる人を、社会のふつうの一人一人の人間が「精神的等価交換」によって包摂していかなくてはならない。
 これは「“普通じゃない”(=自分が心地よくラクに包摂できない)相手は全部プロに丸投げする」という安易な道を選びたくなる、われわれ「自分では普通だと思っている人」に対して、重たい提案である。
(ちなみに著者はこの重たい提案を実現しやすくするツールとして、地域通貨や互助通貨を挙げている。)

★★★

 こんな感じで、弱者だと思っている人にも、弱者ではないと思っている人にも、全方面に重い提案を突きつけてくる本である。
 それは著者の精いっぱいの誠実さの顕れなのだと思うのだが、現実への処方箋としては、苦過ぎて、そして即事効果が見えないので否認したくなる。ましてや「自立に悩んでいる人」が癒やされる内容では全くない。
 おまけに内容が入り組んでいて、平明な文章と裏腹に決して読みやすいとも言えない。

 だが、世代間闘争や格差論、あるいは自助努力論の中に、うなずきながらもどこか割り切れないものを感じる人にとって、もう一歩先を考えるきっかけになる本だ。
 最後の著者の提案に賛成の人も反対の人も、「私は何をするべきなのだろう」という問への答えは、持っていなければならないはずだから。

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