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『春にして君を離れ』(その1) なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て

 みんな、自分は聖人になれないのを知っているけれど、他人には聖人のようなふるまいを求めてしまう。

『春にして君を離れ』,アガサ・クリスティ著,早川書房発行,2004年4月刊

 友人内の読書会で、この本が課題図書になった時、正直気が重かった。
 手垢のついた言い回しをあえてすれば「人間の善意の闇」を書き切った小説として、名作オブ名作、傑作オブ傑作。アガサ・クリスティのベストにあげる人、あるいは「自分にとって非常に大切な本」にあげる人も数多。レビューも感想も分析も大量に書かれていて(noteを検索するだけでも300件以上はあるらしい)これ以上何か言えることあるっけ? と思ってしまう。
 おまけに、昔これを読んだ時に大層気が滅入ったので、今回も細目で流し読みして何とか乗り切ったのだが、それでも気が滅入っている。

 気が滅入ったのは、実のところこの小説に書かれていた内容そのものにではない。
 この小説の読後感というか、これを読んだからとて、あまりいい方向に変わっていく筋道が見えないということに、気が滅入るのである。


「ジョーンみたいにならないように気をつけよう」なんて言えない

 この物語では、ジョーンという善意のかたまりのようなしっかりものの良妻賢母が、自分が狭い価値観の中で「社会的正しさ」をゴリゴリと他人に押し付け支配して家庭を築いてしまった——ということを、とある出来事をきっかけにまざまざと自覚してしまう、慟哭が描かれる。
 今だったら「毒親」の一言で片付けられてしまいそうなのだが、ジョーンは実のところ「他人を支配して自分の代理にする」毒親的自己愛からそういうことを行ったとは言い難い——というと、すごい勢いで反論されそうだが、ジョーンの自己愛は、人間なら誰でも持つレベルのものだと思う。ジョーンは見果てぬ渇望や失敗の取り返しを、子供に転嫁するためにそういう行為を行った訳ではない。
 ジョーンは、基本的にまっとうで善良で正しい人間で、他人が間違った選択をするのを見ていられないのである。彼女の言動は、歩きスマホをしてクルマにぶつかりそうになっている人を咄嗟に歩道に突き飛ばしす反射のようなものだ。悪く言えば、単なる反射なので、考えている訳ではない。
(また、ジョーンが「ちゃんとしていない」状態に何故ここまで反応してしまうのかということについては、ジョーンの父親が、だらしないところのあったジョーンの母親のケアを、自分では手を下さずにジョーンたち娘に押し付けていたことに根っこがあるのではないか——というところまで描かれているのが、怖いところだ)

 実のところ、ジョーンが家族に対して行った様々な意見や干渉は……正直……他人の目から見るととても「まとも」なのである。彼女が反対する選択は、現実問題として十中八九失敗するだろうなという代物なのだ。
 夢見るお坊ちゃんロドニーに農場を経営する才覚があったとは思えないし、それだけでなく彼は農場が失敗して破産したらその境遇に耐えられなかったろう。エイヴラルの不倫も熱情が冷めれば暗澹たる結果になるのは目に見えている。息子のトニーの南アフリカの農園も、農科学校も出られなかった彼が、さてはてどこまでうまくやれるのか。バーバラの選んでくる友人は、ロドニーの目から見てもろくでもない男だし。
 ぶっちゃけ、山あり谷ありあっても結局スカダモア家が零落せず、ゴリゴリに「まっとうな在るべき姿」が規定されている当時のイギリスアッパーミドルクラス社会で、安定した生活を送っていられるのは、ジョーンの采配によるところが大きい。私があの状況でも、言葉は選ぶにしても結論としては同じアドバイスをせざるを得ないというところが、非常に、非常に困る。

 同じ状況に陥った時、「ジョーンみたいなことをせずに相手の尊厳を大切にして選択を尊重しながらサポートしてあげます」などと真顔で言い切る人がいたら、むしろそっちの方が怖い。友人程度の相手ならともかく、本当に自分にとって大切で自分にも影響が大きい立場の人の選択だったら。そんな聖人みたいなこと、本当にできるのかな。自分を過大評価しすぎではないかと思う。
(その選択について「社会は反対するかも知れないが自分は内心賛成している」というケースは、また話が違う。混同しがちだけど)
 そして、もし本当にジョーンがそんな風に本当の意味で相手に寄り添ったアドバイスをしたら、彼らは耳に心地よいことばだけ受け入れて暴走し、大失敗した挙げ句に、「なんであの時止めてくれなかった!」くらいのことを言い出しそうな気がするのだ。

 本当に自分の立場だったら、と考えてみると、どうすればよかったんだろうと途方に暮れる。
 言い方に気をつけつつ、受け入れられそうにないアドバイスをして悲しく見守るか、クルマにぶつかるのはしょうがないからその後をサポートする方に割り切るか、社会からはみ出してしまっても「神様が見てくださるので恥じることはない!」と開き直るか、万にひとつの「常識的にはアレとしか言えない選択だったが幸運と出会いに恵まれて最終的にはいい感じにおさまりました」という僥倖に賭けるか。
 どれも、今こうやって言葉で書くならサラサラとできるけれど、現実にその状況に陥ったら、とてもじゃないけど平穏な気持ちではいられないだろうなと思う。

「それをやりきった人間」として、物語世界の中にはレスリーが存在しているのだが、読者の立場からしても「いやでもこう生きるのは難しい」と言わざるを得ない。結果として、レスリーは、快活ではあっても貧しいまま、生活苦にまみれて殉教者のように病に倒れる。その死は、イコンのように物語の中に留め置かれる。自分の生活に影響しない他人の顛末だからこそ許容し称賛できる、聖なるものとして。

ジョーンも私も、聖者にはなれない

 普通に考えれば、狭い価値観をゴリゴリに押し付ける余計なお世話なお節介人間のジョーンに、何故私はこんなに気の毒ないたたまれない気持ちになるのだろう。私はどちらかというと、「あなたはあなた、私は私、違う価値観をうまくすりあわせてやっていきましょう」というタイプなので、ジョーンを真っ先に嫌悪するのに。

 ひとつには、ジョーンが実のところ周囲を非常によく観察して相手の気持ちを本当のところは感じている聡明さを持っていて、ただ「社会的正しさ」(と少しの自己愛)によってそれが眩まされているという状況——があると思う。
 それを「心の闇」とか「善意をかぶった悪」と表現して「こうならないようにしよう」とつぶやくのは容易いが、彼女ほど聡明な知性と観察力を持っているはずの人間であってもこうなのである。
 果たして自分が同じ状況になった時に、自戒が役に立つのだろうか?
 自分が属している価値観の中で「こうあってほしい」と大切にしている何かが侵されているとしか、本当に本当に感じられない時に、そこで踏みとどまって「相手には相手の価値観と見方がある」と言えるのは、ふつうの人間ではなく聖者だと思う。「相手には相手の価値観がある」と嘯けるのは、大抵の場合自分の価値観が脅かされてない時だ。

聖餐式の際の祈祷文がジョーンの心にひらめいた。「この後新たな生活を送るように——」
 サーシャは重々しい口調でいった。「神の聖者たちにはそれができたのでしょうけれどね」
 ジョーンはまじまじと見つめた。
「でも——わたしは聖者ではありませんわ」
「ええ、そういう意味で申しましたの」
 サーシャは言葉を切り、ちょっと語調を変えて続けた。「ごめんなさいね、こんなことを申し上げて、それにあたくしのいったことは、あなたの場合にはあてはまらないかも知れませんし」

 春にして君を離れ p290

 自分の価値観が脅かされてもそう在りたいと、私だって願うけれど、実際に言えるのは「そう在ろうとできればどんなにいいだろう」程度のことだ。そう心から願いつつ、でもできない可能性の方が高い。
 そして、それは実際最後のジョーンの選択そのものなのだと思う。
 彼女は元の生活に戻ったけれど、もう元の人間ではない。ロドニーの目からは何も変わっていないようにしか見えない彼女は、しかし「そう在ろうとできればどんなにいいだろう」という限界を知った違う存在だ。

 悲しいことに、物語としては、だからこそいい。
 ジョーンは聖者にはなれなかったが、なってしまったらこの作品は共感を呼ばないものになってしまう。
 ジョーンの選択に、「お節介は一生お節介よねー」と決めつけて、人間なんてこんなものさと嘯いて、あるいは「自分の加害者性が恐ろしい」と震えて、「私はこんなことにはならないわ」と出来もしない決意をして、読者は束の間の心の安寧を得られる。ジョーンを置き去りにして。

 けれど置き去りにされたジョーンは、自分の罪を知って悔いている。そのことを物語の登場人物は誰も知らないけれど、神様は知っているだろう。
 私はキリスト教徒ではないけれど、この先、ジョーンが生命尽きる時が来る時、キリストは、ジョーンを迎えに来てくれるのではないかと思う。そう願うのではなく、そうだろうという確信がある。
 それはジョーンが聖者だからではなく、誰に知られることもなくても、本当に罪を悔いたからだ。この物語には、本当の意味で罪を悔いた人は、ジョーンしかいない。そういう意味では、ロドニーが言うように「君はひとりぼっち」なのかも知れない。だがキリストは、そんなジョーンを迎えに来てくれると思うし、もしかしたら死を迎えるよりずっと前から、エピローグの後もたったひとりで生きたジョーンのそばに、そっと寄り添っていたのかも知れない。

一人や二人で家庭内役割を担うシステム自体の欠陥

 しかし当然ながら、「ロドニーはともかく、ジョーンの子供達はかわいそうなジョーンのために犠牲になれって言うんですか!」という反論があるだろう。特に、実際抑圧的な親に苦しめられたと自認している人は。
 子供は大人よりも圧倒的に無力なのだから、もちろんジョーンの抑圧に対抗することができない問題は、無視する訳にいかない。

 それに対して私が魔法のような解決策を持っているなんてことは、当然ないのだが、それでも私が思うのは、
「そもそも親しか介入者がいなかった時点で、まずかったのでは」
ということである。

 ジョーンのモノローグで語られていることを差し引いても、ジョーンとロドニー以外の大人の影が、スカダモア家からは排除されている。ナニーも家庭教師もいる、だが彼らは「スカダモア家の外側」に押しやられている。そしてその結果として、ジョーンとロドニーは子供の一切を二人で背負わねばならない。たった二人の人間の世界観と価値観しかモデルのない世界で、そのどちらにも納得できなかったら、子供は苦しむしかないだろう。
 同時に、その二人が、仮に何の悪意もないとしても、間違ったら取り返しがつかないということになる。だが人間は絶対に間違うのだ。

 子供に対して間違ったふるまいは決してしてはならない、だからこそ絶対に正しいふるまいができるようにしよう、と悲壮な決意を固めるよりも、「私が間違ったことを言っても、たくさんの大人がリカバーしてくれるだろう、何とかなる」というくらいの気持ちでいる方が、結局は大それた間違いをしないで済むのではなかろうか。
 また、仮に大それた間違いをしたとしても、愛情が壊れることなく生きていけるのではないだろうか。
 けれど、スカダモア家が所属する、あの時代のイギリスのアッパーミドルクラスの家庭に、そんな「社会全体で広く子育て」というものを期待できないのはわかりきっている。

 私がこの本を読んで気が滅入るのは、ジョーンの慟哭、そしてスカダモア家の歪みの悲劇が、ジョーンひとりの心持ちで何とかなるレベルの代物ではなく、もっと上のレイヤーの巨大なシステムから析出されたものだからだ。そして同時に、巨大なシステムのバグの析出であっても、それに対して個人は悲壮なまでに罪を負わなければならないという理不尽を目の当たりにするからでもある。

 私は、実際に会ったらさぞやうんざりする人間であろうジョーンを、憎んで嫌うことができない。そして、ジョーンにならないように気をつけよう、とさえ言うことができないのである。

ジョーン以外の家族について考えた話は↓


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