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【徒然なる雑感】1.感情は破壊と創造の源である

 この数年、なぜ自分が文法を研究しているのかということをなんとはなしに考えることがあります。結局のところ、「好きだから」という結論にいつも至るのですが。しかし、先日、5月1日の令和の始まりの日はちょっと違いました。朝ごはんのあと、食器を洗いながら、ふと「なぜ文法を研究しているのだろう。」と考えはじめ、さらに思考は展開して、「文法とは?文法のおもしろさってなんだろう?」と考え始めていました。「なぜこのタイミングで考え始めた?」と思うのですが、人間の思考というのはとめどなく、そして脈絡無く生じるときがあるものです。そうやって、食器を洗いながら、現れては消える思考に興じていると、言語における真理というか定理のようなものに行き着いて、改元のお祭りムードの最中(さなか)、それこそ心躍るような、その一方でぞくぞくとした何ともいえない興奮を感じたものです。

 ところで、私自身を振り返ったとき、「文法」に興味を持ったきっかけが二つあります。一つは高校で古典を習い始めたことです。品詞分解のとりことなり、語と語がどのようにつながるのかが分かって現代語訳がきれいにできると、パズルを解くような快感がありました。古典文法の学習が本格的になるにつれ、文法の面白さ、古典文法の論理的な美しさ、文法が文章の解釈に関わるおもしろさによりいっそう引き込まれていったものでした。もう一つは中学、高校と文芸部に所属していたことです。文芸部では、主に詩を書いていました。詩作をとおして、語と語のつながりの不思議さに魅せられていました。「子どもが走る」はごくありふれた普通の文なのに、「空が走る」となると一気に詩的な表現になることが面白く、詩に書く内容よりも、語と語のつながり、すなわち「文法」への興味が勝っていました。

 古典文法の学習では、文法の「規則性」に魅せられた一方で、詩作では文法の「違反性」に惹きつけられていたと言えるでしょう。文法は規則的な一面と違反的な一面とを持つ、なんとも不思議な存在なのです。そして、文法の面白さ、文法研究の面白さはその規則性と違反性を行き来することにあるのだと思います。では、なぜ規則性と違反性を持つのでしょうか。言語の「規則性」というのは、この世界の森羅万象に何かしらの「規則」があるように根源的に備わっているものだと思います。万有引力の法則だとか相対性理論だとかと同じように。では、「違反性」はなぜ生じるのでしょうか。たとえば、パがハへ変化する唇音退化や動詞活用における二段動詞の一段化現象などの言語変化は「省エネ化」「経済的効率化」が原因と言われることがあります。このような言語変化は、いわば、「規則」の自然変化であると捉えられるでしょう。たとえるなら生物における自然淘汰や遺伝子の突然変異のようなものです。それらとは違って、言語の使い手である人間の「感情」に起因するのが「違反性」ではないかと考えます。強い感動や心の動きを表現したいとき、それはもはや規則的には表現しえない、つまり「破壊」のエネルギーが生じ、言語の「規則性」を乗り越えてしまうのです。そうして、「破壊」のエネルギーによって生じたものが新たな表現であり、つまり「創造」であると考えます。「空が走る」が詩的な表現になり得るのは、本来は、「空」と「走る」は「が」で結びつくような関係を構築し得ないけれども、そこに感情表現が伴ったとき、擬人法というレトリックとともに文法を越えて「空が走る」という結びつきが可能になるからだといえるでしょう。

 令和の始まりの日に改めて気づいた「言語における真理」とは、「言語の規則性と違反性」ということでした。そして、「違反性」を生じさせるものは「感情」であり、さらに「感情は破壊と創造の源である」ということにも気づかされました。「破壊と創造」のごとき「平成の終わりと令和の始まり」というこの節目にあって、このような気づきを得たことは偶然ではなく、私自身の使命を感じる出来事として受け止めています。新しい時代の幕開けとともに、また心新たに自分のすべきことに向き合って生きていきたいと思います。

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