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チームができてから何かを作るのか、作りながらチームになっていくのか。

一昨日、個人事業主としてのホームページをアップしたことをご報告したけれど、懲りずにまたホームページをつくっている。

次は、会社のホームページ。
今度は自分という「個人」ではなくて、「自分たちの会社」を表現するわけなのだけど、「私」を表現することと「私たち」を表現することはこんなにも違うのかと驚いている。

何よりちがうのは、かかる時間。

「私たち」を表現するのは、めちゃくちゃ時間がかかる。
個人のホームページは制作期間3日だったけれど、会社のページはそんなの絶対に無理だ。
「ああでもない、こうでもない……」と書いては消して、書いては消してをくり返している。

私(I)が主語であれば、表現の責任は「私」に返ってくる。何かあっても私が謝ればいい話だから、まぁ気楽なものです。(注:仕事は真剣にやります)

でも、私たち(We)を主語にした途端に「責任」が大きくなる。
一緒に会社をやっている「私たち」の想いを、私は十分に理解できているだろうか。考えや想いを汲んだ表現ができているだろうか。

……なんて悩んでいたら、まるで筆が進まない。
うううぅぅぅと、産みの苦しみのなかを漂っていた。
(これぞスランプ状態!)

ーーそんなタイミングで、今夜、こちらの講座の最終回があった。
(企画協力をさせていただきました)

文化人類学者の小川さやか先生を囲み、3回にわたってビジネスに役立つ文化人類学のエッセンスを学んできたのだが、さいご先生がこんなことを話していた。

私たちは、お互いを理解しようとし過ぎているのかもしれない。

でも、そもそも私たちって、そう簡単に理解はできないじゃないですか。
「君のこと150%理解している」
とか言われたら、気持ち悪いですよね。

だけど、たとえ理解できなくても、一緒にいることはできるんです。

この言葉を聞いて、私のなかで腑に落ちる感覚があった。

ああ、私は、理解を求めすぎていたのだ。

でも、おそらく対話を重ねたところで、いつまでたっても理解しあえる日はこない。
だったらもう、つくりながら理解しあっていけばいいのだ。ああでもない、こうでもない、と、一緒に進めていくうちに自然と理解できる部分が増えていく……はず。
そう気づいたら、ちょっと楽になった。

「チーム」ができてから「つくる」んじゃなくて、
「つくる」作業を通じて「チーム」になっていく


そういうものなのかもしれない。

とはいえ、向かいたい方向性は事前に確認したほうがいいだろう。そうじゃないと、つくりながら空中分解してしまうから。

ただ、そんな音楽性の違い(?)も、つくる作業をしてみて初めて気づけるものなのかもしれない。

抽象的なビジョンや概念、アイデアの段階であれば合意できていても、具体的な表現に落とし込むプロセスでは予想外なものが色々現れ出てくる。
とはいえ、総論は賛成でも、各論になるといろんなちがいがあるのは当然だ。「この人にとって、この概念は、こういうイメージだったんだなぁ…」なんてことに気づきつつ、お互いの間合いを調整しながら、アウトプットに落とし込んでいく。

ーーなんて、言葉にするのは簡単だけど、実際のところは、ゼロから何かをつくりあげるって、やってみないとわからない水もののプロセスだし、いつも真剣勝負みたいなもの。
そして、こういう場でこそ対話の技術が必要になる。

対話をしてから何かするのではなく、何かしながら対話をする。お互いを深く知れるし、アウトプットもできるし一挙両得かもしれない。

ちなみに、私たちは、幸いにも、進みたい方向はほとんど一緒だった。
得意領域や視点、感性のちがいは、もちろんある。
でも、進みたい方向が大体一緒だからこそ、持ち寄るアイデアは自然と統合されたものになっている、、、気がする。今のところは。
もしこれから折り合わないところが出てきたら、また調整したり何なりしていけばいいだろう。そんなプロセスもまた、お互いを知り合い、前へと進むことにつながるはずだし、どうしても折り合わなければまたその時に考えればいい。

何が言いたかったかというと、、、
1人でつくるのもいいけれど、みんなでつくるのもいいなと思った話でした。

時間はかかるけれど、視点を持ち寄るからこそ生まれる「そうなんだ!」という発見がとても興味深くて刺激的なのです。

そういえば、本をつくるのも視点を持ち寄る作業だ。
一年半ほどのんびり運転だったけれど、そろそろまた本をつくる仕事もやりたいな。

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