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読書メモ:瞑想とは愛の行為であるーー『瞑想はあなたが考えているものではない』

自分の学びを深めるため、後々に参照するため、そして興味・関心があるけれど読む時間のない方にポイント(注意:私が読みとったもの)をお裾分けするために、読んだ本のメモを公開していこうと思う。

1冊目はこれ。

『瞑想はあなたが考えているものではない』
マインドフルネスの世界・ブック1 〜なぜマインドフルネスがこれほど重要なのか〜

ジョン・カバットジン著、大野純一訳
コスモス・ライブラリー
2020年9月刊行(原著:2018年刊行/2005年第1版)

「マインドフルネスについての今までで最高の教師の一人」(ジャック・コーンフィールド)と称えられたジョン・カバットジン氏の主要著作(4分冊)の「ブック1」。
瞑想とはそもそも何か? なぜ、やってみるだけの価値があるのか? すでにマインドフルネスを実践しているなら、併せて瞑想を続けていくだけの価値があるのか? ――そうした問いに懇切丁寧に応える1冊、とのこと。

約1年前、刊行直後にご恵贈いただいて以来、長らく積読状態だったのだけど、先月ヴィパッサナー瞑想10日間コースに参加したのをきっかけに読み始めた。というのも、「私、瞑想についてずいぶん勘違いしていたのかもしれないなぁ」と思い知らされたのだ(これについては自分の言葉で追ってまとめてみたい)。
そして、あらためて「瞑想とは何か」を紐解いてみたいと思って、この本を手にとってみたのだった。
結果として、私の狙いは大当たり! 「ああ、私が感じた”勘違い”とはこういうことだったのか!」と振り返りを大いに助けてもらった(経験した後の整理を助けてもらえるって、本のとてつもない功績だと思う)。

以下では、特に印象に残ったところを抜き出していく。

*太字は原著にはなく、引用者によるもの
*以下の引用文は順不同(引用者の意図によるもの)
*見出し、解説は引用者により作成

ポイント1:マインドフルネス瞑想とは何か

このあたりは他書でも頻繁に紹介されていることだけど、復習をかねて引用。特に2つ目の引用で指摘されている、私たちは現実そのものではなくて概念を見聞きしているというのは、瞑想を経験すればするほど気づかされる。ただ「無知の知」ほど知るのが難しいように、「気づいていないこと」に気づくことの難しさを痛感せずにはいられない。
あと、3つ目の引用をきっかけに手塚治虫のマンガ「ブッダ」を読み返した。ブッダすごい……!!

 禅、瞑想、マインドフルネスに関する限り、物事をややこしくする必要は何もないのです。瞑想は、人生または心に関する精緻な哲学を開発することを目指すものではありません。それは、“考えること”についてのものでは全くありません。それは物事をシンプルにしておくことについてのものです。(P 36)
「あなたは見ていますか?」
 私たちがただ見ることはほとんどありません。
「あなたは聞いていますか?」
 私たちがただ聞くことはほとんどありません。
 思考、解釈、そして情動(感情)が、あらゆる経験の後に押し寄せるので、元々の見る瞬間、元々の聞く瞬間に、私たちが“そこ”にいたということがほとんどないほどです。
(中略)
 私たちは錫杖というよりはむしろ、その概念(思い描いているもの)を見ているのです。ピシャリという音よりはむしろ、その概念を聞いているのです。(P 38)
 ブッダは、かつて、彼の全ての教え――彼は四十五年余りにわたって教え続けました――の中核はたったの一文で要約され得ると言いました。(中略)
“何ものも、私に、または私のものとして固執されてはならない。”
 言い換えれば、無執着です。とりわけ、あなた自身、およびあなたの人となりについての固定観念へのそれです。(P56)
 私たちは、一つの文化として、内面性との深い親密さへの潜在可能性へ、また静寂と沈黙を抱擁するための気づきを養い、学ぶための力へと目覚めることの初期段階にある、と言っていいのではないかと思います。(中略)
 要するに、私たちの文化にとって、瞑想はもはや異国の、エキゾチックな何かではないのです。
(中略)
 が、再び、どうか銘記していただきたいのですが、……それ(注:瞑想)は、あなたが考えているものではありません!(P 31)

ポイント2:瞑想についてのよくある勘違い①

1つ目の勘違いは、瞑想は「技法」ではなくて「在り方」であるとのこと。
”どのように瞑想をするか””どのようにして真理に近づくか”というHowばかりが注目されがちだけど、そういうものじゃないよね、という話。

瞑想は一つの在り方(a way of being)であって、技法ではない。
 (中略)
 全ての技法は様々な在り方、現在の瞬間および私たち自身の心と私たち自身の経験との関係における在り方を指し示す、方向/位置判断媒体だということを理解しないかぎり、私たちは容易に(中略)(瞑想の技法を)何か特別な結果または状態を経験するために用いるという、見当違いだが、しかし全く理解できる企てに容易にはまってしまう可能性があります。(P 63)

とはいえ、「在り方」というのは、わかったような気がするけど……という”もやっとワード”かもしれない。これについては、2つ目、3つ目の勘違いを読むと、より腑に落ちると思う。

ポイント3:瞑想についてのよくある勘違い②

2つ目の勘違いは明確に言い切っている。
ズバリ、「瞑想はリラクゼーションではない」。

 第二に、瞑想のまたの名はリラクゼーションではないということです。
(中略)
マインドフルネス瞑想は、全ての心の状態を、選り好みせずに、気づきの中に受け容れることです。
(中略)
 苦痛または苦悶、さらに言うなら、退屈、短気、欲求不満、心配、体の緊張は、もし私たちが現在の瞬間に起こっていることに気づくなら、全て等しく妥当な私たちの注意の対象であり、その瞬間に私たちがリラックスしたり、平静さや至福を経験したりしていないので、私たちの瞑想実践が“うまくいっていない”ことの徴であるよりはむしろ、どれもが洞察と学び、そして潜在的には、解放への格好の機会なのです。(P 64)
 重要なのはあなたの経験の中身ではありません。重要なのはその中身に気づく私たちの能力――その展開を駆り立てる諸要因、およびそれらの要因が、一瞬一瞬、年々歳々、私たちを解放したり、閉じ込めたりするやり方に気づく私たちの能力――です。(P 66)

瞑想の本質は、その瞬間に自分の心に起きることをありのままに気づき、平静さをもって受け容れていくこと。
さらに言うと、心の中に現れてくる経験の中身を選り好みすることはできない(選り好みすることで、瞑想の本質から離れていく)。
だから「リラックスのために瞑想をする」というように、何かを求めて瞑想をするというのは、本来の瞑想ではないと考えられる。

……とはいえ、私たちは癒しや成長・変容を求めずにはいられない生き物でもあり、、、ここは正直なところ、耳が痛いと感じている。でも、こうして「耳が痛いと感じていること」さえにも平静さをもって気づきを向けていくのが、瞑想の実践なのかもしれない……と考えると、起きること全てが気づきと平静さを身につけるチャンス。瞑想は何かを達成するためにするものというよりも、一生かけて続いていく終わりのない「道」のようにも思えてくる。

ポイント4:瞑想についてのよくある勘違い③

さて、さらに耳の痛い話が続く。
瞑想についてのよくある勘違いは「瞑想は、何か特別な体験をするためのものではない」ということだ。

 時々、熟練した瞑想者たちさえ、瞑想はどこか特別な場所へ至るべく努めることについてのものではないということを忘れて、自分の願望や期待を叶えてくれるであろう一定の結果を待ち焦がれたり、切望したりする可能性があります。(P 66)

これは、まさに私のことを言っているのではないかと思った。というのも、知らず知らずのうちにに、私は”特別な場所・感覚の虜”になっていた、ということに10日間の瞑想をとおして気づかされたのだ。

私は、刺激的だったり、時には神秘的だったりする経験・体験という”コンテンツ”ばかりを、知らず知らずのうちに追い求めてしまっていた。
いろんな経験をする中で、このことの危険性は、理解しているつもりではいた。でも、文字通り"つもり"で、いざ瞑想に集中する環境に身を置くことで、実は全然わかっていなかったことに気づかされたのだ。

 私たちは、何か特別なことを起こさせるべく努めることを放棄することができます。何か特別なことが起こることを欲することを手放すことによって、多分私たちは、何か非常に特別なことが既に起こっており、また常に起こっている、すなわち生(ライブ)が各々の瞬間に気づきそれ自体として現前していると言うことを悟ることができるのです。(P 70)

経験・体験というコンテンツは、テレビ番組のように移り変わっていく。それに目を奪われている限り、私はずっと平静に”今、ここ”に憩うことはできない。耐えず、渇望と嫌悪をくり返してしまう。
でも、”経験・体験を求めること”を放棄することで、本当の平静な「気づき」が生まれてくるーーという。ここは、まだ「そんな気がする」というレベルでしか体感していないけれど、、、でも、この事実に気づいてからが、本当の瞑想の始まりのような気がしている。そして、実際のところ、この事実を理解してから、瞑想をすることが心地よくなっていった。「どんな経験・体験が起きてもOK」という態度が固まったことで、「瞑想の時間」=「何が起きてもOK!と現れてくるいろんな出来事を100%受け容れる時間」に変わった気がしている。

ポイント4:瞑想の目的は?

ここから、瞑想はなんのためにするのか、というところに話が展開していく。

瞑想にはいかなる目的もありません。(P73)

瞑想には目的がない。
だけど、著者は次のように「瞑想を愛の行為」とみなしていて、私はこの感覚・表現がとても好きだ。


 私は瞑想を愛の行為、私たち自身と他の人々への慈善と親切の内なる仕草(ジェスチャー)――自分の明白な不完全の中にも完全を認め、自分の欠点、自分の傷、自分の執着、自分の苛立ち、そして自分の執拗な気づきのなさの習慣にもかかわらずそれを認める内なる仕草――とみなすようになりました。
 何の身構えもせずに現在の瞬間に立ち寄り、着席することは、非常に勇敢な仕草です。任意の瞬間に立ち止まり、見つめ、そして聞き、心を含む私たちの全ての感覚に私たち自身を任せる時、私たちはその瞬間に人生で最も神聖なものを体現しているのです。(P 80)

「瞑想」を「愛の行為」だとみなす背景には、こうした逃れられない現実もある。


もしも私たちが自分の存在それ自体に根ざしておらず、もしも覚醒状態に根ざしていないなら、私たちは実は自分自身の人生という贈り物を受け取り損ない、そして他の人々のためになる機会を見逃しているのではないでしょうか?(P 87)

ソローが『森の生活』(岩波文庫、1995年)の最後のほうで言ったように「我々が目覚める日だけが夜明けを迎えるのだ。新たな夜明けが訪れようとしている」(P 88)

目覚めていない(マインドフルネスではない)=人生からの贈り物を受け取り損なっている。そして、真に他者に貢献する機会を逃してしまっているーー。これは、私たちを瞑想の実践へと駆り立てる動機になり得るものかもしれない。

とはいえ、瞑想はそもそも、そんなにストイックになる必要があるのだろうか? それについて著者は明確に「No」と表明している。
「注意」だけに焦点を当てるのは「エイジェンシー(自律性)感覚が強すぎる」と(P89)。

 呼吸が、なんらかの根本的なやり方で“呼吸者”として私たちが想起しなければならない“誰か”(「私が呼吸をしている」という呼吸者、もちろん「私」など)を必要としないように、目指すことと継続することは、目指すことまたは継続することを行う誰か=主体を必要としません
(中略)
 目指すことと継続することは共に、私たちが気づきそれ自体の中に憩うことにより多くくつろぎを感じ、それに磨きをかけていくにつれて、自然に行えるようになるのです。(P89-90)

卵が先か鶏が先か、つまり、「目指すこと、継続すること」が先か、それとも「気づきに憩うこと」が先かという話にも聞こえてくる。
ただ多くの方が経験しているように、瞑想を続けていく中で、瞑想が「しなきゃいけないもの」から「自分の生活に欠かせないもの」「心から安らげる大切な時間」に変わるタイミングがあると思う。
瞑想の実践も「今、ここ」の積み重ね。今、ここに気づいていくという「愛の行為」をくり返していくことで、徐々に「何かを目指すこと」さえも自然と手放されていくのだろう。

ただ座り、一人きりで静かにしていることは、実は根本的な愛の行為なのです。このようにして座ることは、実は、人生におけるただ今のあなたの立場を、それが何であれ、表明することです。私たちは、今ここで座り、そして立ち上がることによって、立場を表明するのです。
ますます狂いつつある世界の中で正気を保つことは、この時代が挑まれている課題です
(中略)
 結局のところ、真実のもの、そして重要なものへの洞察を私たちに与えてくれることができるのは愛なのです。(P106)

ますます狂いつつある世界で正気を保つーー大きな問いであり、チャレンジのように思えるけれど、その回答もまた、今、この瞬間の積み重ねでしかない。
今、この瞬間に私たちは何をしていくのか。被害者として世間の喧騒に巻き込まれるのか、知ってか知らずか狂ったシステムの餌食となるのか、それとも真実へと目を開いて愛とともにあるのかーー。
できる限り愛とともにある選択をしたいので、私は、今日も、明日以降も、静かに座る時間をとり続けたいと思う。

おわりに:瞑想とは愛の行為である

「瞑想とは愛の行為である」という言葉から溢れる著者の愛が、もうたまらない。

私は、どこかで、能力を高めるためにやらなければならないもの、可能性を最大限に発揮するための修行、、、とか、目的を果たすための手段として瞑想を捉えていた部分があった(正直に言うと、今もそう感じる部分はある)。瞑想に苦手意識がある方は、もしかしたらこんな感じで、「やらなきゃいけないTodo」的に捉えているのかもしれない。でも、そこで終わらせるのはもったいない!

続ける中で、瞑想をすること、気づきの中にいること自体に、なんとも言えないあたたかさ、安らぎ、幸せさを感じる割合が、少しずつ増えているような気がしている。そしてその感覚は、自然とまわりと分かち合いたくなる。ふしぎなことに、生きとし生けるすべてのものの幸せを願う「慈悲」の感覚へとつながっていくようなのだ。

とはいえ、安らぎも幸せも、慈悲の感覚も、目指して得られるわけではない。目指すことすらなく、ただ、静かに、平静に座る。私たちにできるのは、それだけ。そして、それを選べることは、私たちに与えられたとても大切な権利、尊厳なんだと思っている。人が人らしくあるために。

なお、今回、引用したのは主に「パート1 瞑想:それはあなたが考えているものではない」からだったけれど、「パート2」も読み応えがあっておすすめです(マインドフルネス瞑想の社会的な意義、マインドフルネスと「空」についてなどなど)。

(目次)
パート1 瞑想:それはあなたが考えているものではない
瞑想は意気地なしには向かない
ヒポクラテス的誠実さを目の当たりにする
瞑想はいたるところにある
原初の瞬間
オデッセイと盲目の予言者
無執着
靴の由来――あるお話
瞑想――それはあなたが考えているものではない
瞑想についての二通りの考え方
目指すことと継続すること
プレゼンス
根本的な愛の行為
気づきと自由
足場の系統、および用途と限界
倫理とカルマ
マインドフルネス

パート2 注意のパワーと世界の不-安心

なぜ注意を払うことがそれほど重要なのか
不-安心
ドゥッカ
ドゥッカ・マグネット
ダルマ
ストレス低減クリニックとM B S R
注意欠如障害の国
二十四時間年中無休の接続
時間の通過“感覚”
部分的注意の連続
気づきには中心も周辺もない
空(くう)

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