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建築にもの想う

私が住んでいるミシガン州は、自然豊かできれいなところです。
ごく近場(車で二時間ほど)に旅行に行ったのですが、夫の仕事関係で出会った方が呼んでくれたので、遊びに行きました。

「すてきな町だから紹介したい」

と言ってくれて、遊びに行ったのですが、本当にステキな町で、自然も人もあたたかいところでした。


その方のお父さんお母さんや兄弟まで紹介してくれて歓迎してくれたり、おじいさんおばあさんが住んでいたお家も見せて下さったり。
築150年ほどの家なのですが、かわいくて。


もちろん地震などが起きないということも関係あるのかもしれませんが、築150年なんて思えないほど、❝普通❞で、さらにかわいいんです。
大事に手入れされていて、そこで家族団らんをしている跡も見えるんです。
いまだに子供たちが帰省するときの泊まる場所として使っているから、ということもあるのかもしれませんが、代々大切にしていたんだな~というのが伝わってくるんですよね。

素直になんてステキなんだろうって思いました。

お庭もガレージもお手入れされて、建築・・というかその空間自体が生きているのがわかるんですよね。
自然と家、庭が一体化していて。


私は、大学のときに、建築を専攻していました。
そのときにはもちろん世界の建築家のことや建築、歴史のことなんかも勉強するんですが、正直なところあまり興味が持てなくて。

ル・コルビュジェ
フランク・ロイド・ライト
ミース・ファン・デル・ローエ

が近代建築の三大巨匠と言われていて、よく題材として出てきていました。

なんですが、ちゃんとその建築のことを知るためには、単純にその建築を知ればいいわけじゃないんです。

本来は、その土地の風土や文化、建築家の背景、依頼者の持つものや背景、その方たちの関係性、人との距離・・・そういういろんなもの全てが重なって、1つの建築ができるんですよね。

考えて見れば当たり前なんですが、まだ若かった学生の私は、授業で聞いたり、学生同士で話したりする❝ごく表面的な❞空間づくりの手法みたいなことや理論だったり、ときには心理学的なことだったり・・そういうのばかりなのが、面白くなくて。

と、いうことも今日はっきりわかったんですが(笑)


こういう空間を作ったら、人間がどう行動をするのか、とか、この光の使い方がどう、とか、動線がどう、とか。

でも実際過ごしにくくない?
それって住宅としてどうなの?
住宅って過ごしやすさとかが大事じゃないの?
デザインばかり、なんで取沙汰されるの?

ということが納得できなくて(笑)
本当にめんどくさい学生なんですが。


日本の風土に合う建築があるだろうし、大きな都市計画的なことも大事だけど、都市ができるのって結局小さな単位の人や住宅が集まってできるんじゃないの・・?
そしてその快適性って、デザインだけではどうにもならないし、ちゃんと理にかなったデザインが存在するはずじゃないの・・?

という疑問や疑念?みたいのが湧いてしまうと、どうしても納得できなかったりやる気が出なかったり、うまくいかなかったり、で。
しかもそれをどうやって解決して良いのかがさっぱりわからなかったんですよね。

そして、ここミシガンにもフランク・ロイド・ライトの設計した住宅がいくつか存在するのですが、ようやくああいう建物を建てた意味がなんとなく分かった気がして。

アメリカのこの風土、文化、土地、自然との関係性、人同士の関係性・・そういうのがあってこその、たとえばフランク・ロイド・ライトが設計した建築が存在するんですよね。

でも大学生の私は、海外なんて行ったこともないし、全くわからない。
本なんかで読んでも全く実感が湧かない。
まぁ若いので経験もないし当然なんですが。

当時優秀だった同級生たちが、そういう背景も理解したからこそ、優秀だったのかどうかはわかりません。
少なくともそのときの私はそれを想像できるほど経験値が足りていなかったし、わかろうとするための努力もまた足りなかったんだろう、と思います。


なんとなくいい、とか、好き、はわかるけど、そこを理詰めで説明したり、納得することができなかったんですよね。



それがわかっただけでも人間的進歩なのかもしれません。
そして、ようやく素直にそういった建築に興味が持てて、ちょっとうれしいな、と思います。
割とトラウマなんですよね(笑)
建築そのものは好きだけど、なんかちがう感がずっと張り付いていて。


アメリカに来てみて感じるのは、本当に人の距離が近いというか、基本的にみんな親切なんです。
もちろんたまたま住んでいる地域が恵まれていることや、夫の職業柄いろんな方と出会って、交流がある、ということもあると思います。

そして、何より自然が多い。
少なくともミシガンは。
自然をコントロールしようとしている感もどこかあるけれど、それにしても普通に育っている木をそのまま庭に残してそれを活かした住宅になっていたり、家の窓から木々や芝生、庭が見えて、窓の景色が美しいです。
りすやうさぎなんかも当たり前にいますしね。


昔ながらの家に愛着を持っているし、そこに利便性なんて野暮を求めないんです。
微妙な不便さとかが、人々に余白をもたらしているのかもなぁ、とも思いました。
日本はすぐなんでも便利にしようとするし、「完璧」にしようとする。
でも「不完全」の中に個性が見えたり、味があったり、ぬくもりみたいなものがある。


大学卒業後、私はメーカーで部品設計をしていましたが(なので建築設計ではなくどちらかというと機械設計)、そこに余白はないんですよね。
コストも切り詰め、設計ミスももちろんNG(そりゃそうか)、安心安全なものを、見た目の良いモノを・・・といった感じで、品質管理も大変でした。

もちろんだからこそ、日本の技術が発展してきたのは百も承知です。
特に自動車産業や、ロケット開発などの場面では、私がやっていた設計なんかよりももっと緻密な設計、もちろん生産するときの精度も求められるものでしょうし、それは技術発展や進化のためには必須だと思います。


だけど、こと家に関しては、もちろん安心安全は大事だけれど、やっぱり余白のようなものが必要なんじゃないかな~って改めて思いました。
きちんっ、とされていることで、自分たちもきちっとしなきゃ、みたいなプレッシャーもどこかあるんじゃないでしょうか。

何代も塗り重ねた壁や、壁紙、アンティークな家具や食器、家族団らんの場・・お客さんと楽しむ場・・そういった空間すべて、場のすべてが、❝家❞なんじゃないでしょうか。


きれいとか汚いとか以上に、心の余白ができるような家、便利とかじゃなく、住みよい家・・そんな場があったら、本当の意味で安心してくつろげる家になるんじゃないかなぁ、なーんてもっともらしいことを思ったのでした。


書いてみるとなんだか浅い気もしますが(笑)


改めてちゃんとそういう❝家❞をつくって、生きることそのものを楽しんで、人との関係の中にも喜びを見出して、自分自身を楽しもう、と決めた1日になったのでした。

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