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意味があることしか意味がないのか

世の中には一見すると、「意味がない」と思えるようなこともたくさんあります。
昔の私はそういうものに対して、なんとなく納得ができなかったり、無駄なものと捉えるようなところがあった気がします。

建築って意味があるアートだなと思っていたんですが、それにしても
「これになんの意味があるんだろう?」
と思うような形や配置といものが結構存在しているんですよね。
実はそこにも意味があったりもするのかもしれないですが。

自然と調和するために作った形であれど、鉄筋コンクリートの無機質な雰囲気のもので本当にそれを「自然と調和している」なんて言えるんだろうか。
その挑戦はすばらしいかもしれないけど、結果として破壊しているように感じてしまう。
それなら、それには意味があるんだろうか?

と思ってしまっていました。


言ってみればアートもそうですよね。
何かを表現していて、これを訴えかけたけたいんだな、っていうアートもあれば、全く何が言いたいのかわからない、と感じるアートもあります。
作者の意図がなんであれ、です。

そしてそこに意味を見出すも見出さないも、見ている側の感性です。

そして、意味を見出すことだけに意味があるのか。
というとそれはNOなんでしょうね。

意味を見出せなくても、そこで感じた何か、共鳴したもの、逆に何も感じないと感じること、それすらも意味がある。
意味があるとすらいう必要もない。

なのだと、感じるようになりました。


意味があることの中にはきっと意味がないも包括されていて、意味があるかどうかなんてことはどうでも良くて、ただそれが在り、ただそれを感じている。
それが生きることで、魂が地球にいることなのかもしれないですね。


意味があるかどうかを求める必要もなかったんだな、はっきりと感じられたんですよね。
所謂、肚に落ちる、という状態でしょうか。


私にとって、「すべて意味があること」で「意味あること」はたぶん結構大切だったんですが、それすらもまやかしだったんだな・・と。
意味を求める必要もないし、意味があるとしたら、ただここにいて自分で在ることなのかな、と思います。


物事すべてにおいてそうですが、必ず「ある」と「ない」が同時に存在しています。
もう少し簡単に言えば真反対のことが1つのものには含まれています。

たとえば、色彩心理の中で、
黄色は
明るい
子供らしさ
自分自身が光り輝く・・
のような意味合いがあります。

ですが、その一方で
明るくない
子供らしくしたい(つまり子供らしくない)
自分自身が光り輝けていない(つまり自分らしくいられていない)
というような意味も含みます。


私たちは“そう”であるから”それ”を求めることもあるし
”そう”でいたい=今は”そう”じゃないから”それ”を求めることもある。


つまりどちらの状態も”それ”には存在しているんです。
厳密に言えば、私たちが捉える”それ”が”そう”であることには”そうでない”ことも含まれていると認識している、感じている、ということになります。


アロマテラピーをしていても同じです。

そのときに良い香りと思うものは
そのときの自分とぴったりな状況だからその香りを良い
と感じることもあるし

逆にその香りの持つ意味が足りない
あるいはその成分が体内に足りていない
からそれを欲するがゆえに良い香りと感じることもあります。


人間が不思議なのか
自然が不思議なのか
宇宙が不思議なのか

それはわかりませんが
どうやらそういうものらしい
ということですね。


だから「意味がある」ことの中には「意味がない」もあり
「意味がない」ことの中には必ず「意味がある」。


だから「意味がある」ことを追い求めることは
「意味がないこと」でもあるし

「意味がない」ことを追い求めることは
「意味があること」でもある

ということなんだと思います。


そもそも、この自然、この宇宙にはすべてがあるわけですから
人間の狭い範囲での「意味」などに捉われなくてもよかったのでしょうね。


ただここのみにあるものを
ただ感じるだけで
すべてに意味がある。

よしんば意味がなくても良い。


そう受け入れていきたいですね。

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