![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/146004845/rectangle_large_type_2_bb30989fe1184112c5fadb63a107f329.jpeg?width=1200)
自由と支配
私たちの本質は自由。
そうだといいな、と思います。
そして自分もそうでありたいな、と思います。
もちろんどうであっても自由なのですが、同時に私たちは不自由な世界に生きている、というのも事実です。
少なくとも地球という制限のある星に生まれていて、さらに言えば、おそらく自由という1つの状態は、その逆の不自由という状態を包括しているものだと思うからです。
自由という状態を感じられるのは、不自由な状態があるから。
そして、そのどちらも含めて自由なのだと思います。
さて、どうしてこんなことを書いたか、というと、「相手の自由を奪いたい」人がいるということを、たまに感じるからです。
私自身に今ふりかかっていることはないのですが、意識的なのか無意識なのかはともかく「相手を支配したい」という人が一定数いて、その支配から逃れようとする人をひどくバッシングしたり、それまで積み上げた関係性を無視してバッサリと縁を切る人がいるのですよね。
こういう方は、きっと「本当の意味で人とつながること」を学びに来ているのかな~なんて思いますが、実際に自分がその被害に遭うときは、正直傷つくし、たまったものではないですよね。
そういう意味で、私は恵まれているのか、はたまたそこに至るまでの関係性を相手とつくらないのかわかりませんが、あまりこういう経験をしたことはないんです。
(社会人になってから)そこまで人間関係で困ったことはない、と言ったところ、少なくとも、以前ある人には
「それはあなたはそこまでの人間関係を作れてないからじゃない?」
と言われました。
曰く、その方は「何度も人から裏切られ傷ついた」「でもその経験が大切だった」と。
確かにそうかもな~と思ったことを明確に覚えています。
でも別にそれを気にすることもありませんでした。
私にはその経験が必要だとは思えなかったからです。
子供のころに女子特有の体験をしたからこそ、大人になってからはそうじゃない付き合いを心がけてきたし、それゆえにそこに困ったことはなかっただけなので。
もちろん、本音を言えない・・とか、みんなみたいに一緒に楽しめない・・みたいな寂しさを感じることはありましたが、それももっと年を重ねて、似たようなお友達と出会って過ごす中で、「ああ、やっぱりあの人たちと合わなかっただけだったんだな」ということに気づくに至りました。
そう、人生には必要なことしか起こらないのです。
たぶんどこかでそれを感じ取っていて、だからこそわざわざ人間関係に巻き込まれに行くようなことはしなかっただけです。
逆に、そういうものを学びたい人、経験したい人もいて、そういう方が独特の雰囲気やグループを作ったり、相手を支配したいという無意識の欲求を満たそうとするのだと思います。
が、結局この方たちが本当に目指すところは、その欲求を本当のやさしさに変換することなんですよね。
無償の愛・・というか、
「この人は私にとって大事な人だと私が思っている」
「だからこそ自分がやりたくてやっていること」
「それを相手が受け取るかどうかは相手の自由」
「相手が受け取ってくれて共有できたならうれしい」
こういうものをきっと経験するのだと思うんです。
そしてその体験をするまでは、何度も人に裏切られたように感じることや、人間関係のいざこざが発生するのでしょう。
これに巻き込まれた人は、この支配したい人にとっては裏切る人であったり、人生にスパイスを与えた人なんだと思いますが、巻き込まれた本人にとっても、もしかしたら学びであったり、「ああ、やっぱり自分は自由でいたいな」と感じるためのきっかけなのかもしれません。
私の母はこれに近いタイプだったかもしれませんが、病気になったのをきっかけに徐々に解放されていきました。
人間ですから、まだ片鱗はたまに見えますが、離れて住んでいる分、あまり気にならなくなりました(笑)
結局一番苦しいのは、支配している人、なんですよね。
苦しいから支配したい。
誰かに完璧にどんなときにも自分のそばにいて全面的に自分の味方であってほしい。
私はこれだけ尽くしているのだから、あなたも私に尽くすべきでしょう。
なんで離れていくの?なんで私のもとにいてくれないの?
深層心理でそう思っていることが、態度として出てしまうのでしょうね。
たとえば幼少期にお母さんを人一倍独り占めしたかったのにできなかったのかもしれない。
もしかしたら自分を育ててくれた人にひどく裏切られるような経験をしたのかもしれない。
これをインナーチャイルドと呼び、それを癒すことが大事だというのは確かにそういう側面はあるのだと思います。
気づくだけでいい、なんていうことも言いますが、気づくだけですべてが癒されるわけではないことも事実。
そういう自分がいることを認めて、そういう自分が発動したときに、自分の気持ちに向き合い、また一方で客観的な本当の意味で大人の自分と対話するしかないのでしょうね。
「いつまでもこれを引きずっていたいの?」と。
もしかしたら、「まだ引きずっていたい」のかもしれないです。
それはそれでいいので、「よしよし、せっかくだからまだこの自分でいよう」っていればいいのです。
でもそういう自分を認識して、何度も向き合っていれば、同じパターンにハマりすぎな自分に気づいて、
「これだけ起きるのは相手ではなく自分に問題があるのだな」
と気づき、
「そろそろいいかな」
って自然と思える時が来ると思います。
もし来なかったら、また次の人生を生きる時に同じ課題に取り組むのでしょう。
そのときは、その本人とはまた別人格で別人生でしょうけれど、今の課題をその人が引き継いでくれるはずです。
さて、では巻き込まれ事故に遭った方・・
おつかれまです。
もし何度もそういうことに出くわすのであれば、きっとそこに何か学ぶべきことがある、または自分に同じ側面がないか見直すタイミングなのかもしれません。
完全事故だなという方は、きっとそれをきっかけに「自分を守る方法」であったり、「自由でいることの大切さ」だったり、「自分として生きて行こう」という確認だったのかもしれませんね。
いずれにしても、出会ってご縁があったこと自体には意味があって、そこから得られたものや感謝もきっとあるでしょう。
自分の中にある怒りや悲しみはきちんと感じて、神に書きなぐって燃やしてみてください。
それだけで全部なくなることはないかもしれないけれど、きっと少しはすっきりすると思います。
さて、最初の話に戻りますが、私たちの本質は自由である、と私は思います。
不自由である自由すらもあります。
ただ、これは自分に対してのこと。
誰しも、人に対してその人の自由を奪うことはできません。
支配されているとしたら支配される自由を行使しているだけです。
だからある意味win-winな関係です。
自分は自由だ、という自由を使えば、いつからでもどこでも自由になれます。
詭弁だと思うかもしれませんが、魂の存在として、宇宙の子として自分たちを捉えたら、そちらの方が本質だということはイメージできるのではないでしょうか。
たまたま肉体に入っているのでそういう意味で制限はかかりますが、本体である魂で考えた時には自由でしかないです。
自由な魂が肉体に入って制限があることで、感覚があり感情が生まれるわけで、対極のものがあることで互いを認識することができるわけで。
ある意味、特殊でおもしろい環境を楽しんでいるので、そのつもりで過ごしてみるとちょっと楽かもしれませんね。
自分も相手も自由であることをぜひ堪能してください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?