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大自然と人間

2週間ほど前、アリゾナへ旅行に行きました。

アメリカに来て1年、いろんな景色を見てきました。


すごく個人的なことですが、私は本当にアメリカに来てよかったな、と思います。
日本はもちろん豊かな自然があって大好きな場所がたくさんあるんですが、なんとなく圧を感じることもあって。
それは土地のエネルギーなのか人や人工物のエネルギーなのかはわかりませんが。

たまたま今住んでいるところは田舎で自然が多くて、とても心地良いところなんです。
葉っぱの色や草の色、空の色が、私個人的にはとっても心地よくて、りすや鹿、鳥などの動物がかわいいし身近だし、で、ずっとここにいたいと思えるくらいなんです。

出身が北海道ということで、今住んでいるミシガンと雰囲気が似ているところがあるからなのかもしれません。


日本では無理やり自然とつながろうとしてた感が今思えばあったのですが、こちらに来て当たり前につながっているような感じです。

木がこれからの天気を教えてくれるときもあります。
そして不思議と本当にその通りになっているんですよね。


私の感覚としては自然と一体化しているような自分を感じるのですが、とはいえ、こちらのごみの捨て方とか、芝生をきれいに整えたり(法律で決まっている)遊歩道が整備されているところを見たりしていると、「自然は人が管理するもの」みたいな印象も受けていました。

今もそういう側面があるというのは感じています。


けれど、そういうことではなかったのかも・・と思うきっかけがありました。
それがアリゾナへの旅。


ラスベガスから入ってレンタカーで、グランドキャニオン、セドナ、アンテロープキャニオンとぐるっと回ってきたのですが、もう本当に雄大で。

毎日4~6時間近く車で移動していってたんですが、全然町も電気も電波もないところがあるんです。
空がものすごく広くて、もちろんその下に広がる大地も広くて、ここが同じ地球で、同じ国なんだろうか、と思うくらい、広いんです。


言葉で表現することは難しいのですが、ただただ広大で雄大で、ただそこにある、のが自然だったんです。

こんな広い土地で、雄大なところで、私たちちっぽけな人間が何をしようとも、何でもないな、って感じてしまったんです。

変な話ちょっとくらい人工物があろうが、プラスチックごみが落ちていようが、この広大な自然の前ではちっぽけなことで、風に流されてどこかへ行って、もちろんとても長い時間がかかるだろうけど朽ちて分解されて・・・


そういう意味で、リサイクルやごみの分別なんかしなくても、この大きすぎる自然の中では、大した問題じゃない・・
みたいな感覚というのでしょうか。
だから大して気にしないのかな?
なんて思ったわけです。


誤解のないように書きおくと、自然を大切にしなくても自然は大丈夫、とか言いたいわけではないです。
今起きている環境問題が本当に問題なのか、はたまた地球のサイクルなのか、それがわかるのはもっと時代がくだった後の世だとは思いますが、少なくとも今、地球が温暖化していることも確かで、とてつもなく多い量のゴミが発生しているのも確かです。
海が汚染され、魚がプラスチックを食べてしまっていて、さらにそれを人間が食べているだろうということも確かでしょう。

でも、ままある自然からすれば、それすらもただの自然の流れであって。
人工物と呼ばれるものですら、地球上にある物質—もっと言えば宇宙にある物質でできている、つまりは自然の産物なわけです。


地球が悲鳴を上げている側面もきっとあると思うし、それを引き起こしたのが人間だとすれば、それを修復する責任も人間にあるのではないか、とは思います。



けれど。
本当の意味で自然とは、ただひたすらに雄大で、ただただそこにあって。
人間などがどうすることもできないものなのだ。

ということをこの度を通して、より体感として感じていました。




ただ、人工物の中で住んでいることに慣れている私は、やっぱり何もない所に行くとちょっと不安になるんです。
車だって人工物なんですが、ここでなにかあっても、連絡手段もないし、人もいないし、どうなるんだろう?
なんて考えちゃうんですよね。


でも、きっと昔から住んでいる人だったり、もともと日本だったとしてももっと前の時代ならば、自然の中に身を置いているのが当たり前で、なんなら自分だって自然の一部で・・となったら、たぶんそこに不安はないんじゃないのかな、ということも思ったんです。

もしこれで何かあっても、それはそうなるべくしてなっただけ。
そして死が訪れたとしてもそれは自然のサイクルの中に自分がいるだけ、ということなんですよね。


そんなことをひたすらに感じた旅でした。

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