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【ミスチルとスピッツ】

私はカラオケが好きだ。よく歌うのは「ミスチルとスピッツ」。学生の頃、カラオケボックスでもアルバイトをし、お客さんがいないときに「ミスチルとスピッツ」の歌をよく練習した。
それから20余年が過ぎ、私はなぜここまで「ミスチルとスピッツ」を愛してやまないのか、そのことの意味が今日やっと分かった気がした。

「ミスチル」のデビューアルバムは「Kind of love」。今私が歌うと、冷静に見れば恥ずかしい甘いラブソングばかりのアルバムだ(でも歌うのだが(笑))。それから大ヒットシングルの「innocent world」や「Tomorrow never knows」(人生で一番歌っている曲)は恋愛を扱っていながら、自意識に焦点が向けられている。それが「深海」の頃から垣間見られる「So Let's Get Truth」、「臨時ニュース」、「マシンガンをぶっ放せ」などの楽曲は、急速に政治性を帯びていく。カップヌードルのCMで使われ、「ニュース23」でも披露された「タガタメ」は、その極にある楽曲であるだろう。

一方「スピッツ」は「ラブでキュート」な楽曲が多い。「ロビンソン」、「青い車」、「Y」、「ハチミツ」等々、まさに枚挙に暇がない。ただ、どの楽曲も草野マサムネのリリックにコーティングされた歌詞は、おじさんが歌うに恥ずかしさを感じる、独特な「甘さ」が控え目に抑えられている。「関ジャム」にて、川谷絵音氏が解説するには、一貫したメタファーとして「性と死」が楽曲に込められているという。とても文学的な表現に満ちている。

私は、この2組の国民的バンドが、カラオケの楽曲として、盛り上がるに相応しいから、ただ好きなだけというくらいの認識でしかいなかった。だが、この歳になり、カラオケを披露する機会が滅法減った今でも、この2組のバンドのセットリストが心の中で流れている。この一見して相容れないバンドが、なぜここまで私の心に刻まれているのか。

私はバブルの経験者ではない。もう3,4年早く生まれていたら、その祭りに参加できたかもしれないが、就職は「超氷河期」で毎年「超」の数が増えていった。そんな時期に学生だった私は、バブルという祭り以降、社会から急速に失われつつあった、あるいは、バブルによって隠されていた、敗戦によって日本から失われた2つのモノが、その崩壊により再び露わになったと言った方が正しいのかもしれない。そして私は、その2つのモノを激しく欲していた。

「「社会」を変えるのは不可能である。「自分」が変わるしかない。だがその変わるべき「自分」とは何か。」そして「自意識」の隘路に迷い込む。迷い込んで出口がない。「そもそも、そんな「自意識」と向き合ってどうするんだ。引きこもってどうするんだ。ダサいよ、それ。街に出ようよ。酒飲もうよ、カラオケ行こうよ。」と歌っていた歌が「ミスチルとスピッツ」。
私の中に決定的に欠けていた2つのモノ。私が「ミスチルとスピッツ」に仮託したモノ。それは「政治と文学」であった。この2組の楽曲を心の中のセットリストに流すことで、何とか自分を保っていたのだなと、今になって思う。(「政治」をアーキテクチャ、「文学」を人文学と置き換えても納得がいく。)

今夜カフェからの帰り道、あいみょんの「さよならの今日に」を口ずさみながら、ふと、自分のこの「ミスチルとスピッツ」という偏愛について腑に落ちた、そんな瞬間だった。
ちなみに、あいみょんは自身も公言している通り、スピッツの大ファンというか偏愛者である。さすが彼女の書く歌詞は、文学的である。

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