見出し画像

大切な人がいなくなるということ

父が亡くなって、もうすぐ1年になる。


8年前、父が肺炎になった時。
間質性肺炎と肺気腫だと診断された。
寿命は、恐らく5年くらいだと。

肺が、すりガラスのようになって
酸素を吸っても肺がうまく膨らまず、上手く酸素を取り込めない進行性の病気だ。

原因はわからないが、            肺気腫に関してはタバコだったり、      仕事の関係もあるだろうと言われた。
父は私が生まれてからタバコはやめたらしいが、
それでも影響があったらしい。

私は、なるべく父と一緒に過ごそうと決めた。
『実家出ないの?』と言われても。
『結婚したらね』とか『お給料安いしなあ』と、
重たい雰囲気になるのが嫌で笑って、ごまかしていた。

亡くなるまでの7年で、5回肺炎で入院をした。
入院するたびに期間が長くなっていき。
その度に、どんどん痩せて父の背中が弱っていくように見えた。

去年、5月半ばに入院した時はコロナの影響で、 2ヶ月以上退院するまで会わせてもらえなかった。
父は10キロほど痩せた。

元々食べても太れない体質で痩せているのに177cmで体重は、40キロ台になった。

家で食べるご飯も、前の半分くらいの量を、
無理してやっと食べているような状態だった。
有観客のライブが始まっても、
父が気がかりなので我慢する事にした。  

  

毎日、父の痩せ細っていく手を握ることが習慣になった。                  次第に、コロナ禍で手を握るのも憚られるので、手の甲と甲を合わせることで、父と触れ合っていた。

どんどん食べられなくなって、トイレも自分で行ってたのが困難になって、喋るのも、しんどそうだった。

それでも、去年の私の誕生日に。
か細い声で一生懸命『さとみ、お誕生日おめでとう』と言ってくれたのが嬉しかった。

その10日後、父は救急車で運ばれた。
職場を早退させてもらったが、まだコロナ禍の 面会禁止で会わせてもらえない。

退院できずに、万が一のことがあったらもう会えないかもしれないと思った。
これ程コロナを、恨んだことはないと思う。
もう父は、30キロ台だった。

更に10日後、急変したと家から連絡が来た。
職場を早退させてもらって、病院へ急いだ。

去年、2回入院して。             その時初めて、いれさせてもらった病室。
マジックで筆談した跡がある。


書くのも、やっとなヨレヨレの字だ。
『シャベレナイ』、『トイレ』
『クルシイ』、『カゾク、ヨンデ』
『デタイ』、『ドウナルノ』

父はHCUの病室に、ひとりぼっちだった。
コロナじゃなかったら、もっと寂しい思いをさせずに済んだのにな………ごめんね。


もう父は、息をしていない。
ほんのわずか残っていたぬくもりが消えていく。
苦しそうな顔じゃなくて良かったけれど。
色んな感情で、いっぱいになって、
家族や先生、看護師さんがいても涙が止まらなかった。


父は、寡黙だけど愉快な人で。
友達は少ないけれど、家族想いで、
職場でも家でも、働き者の優しい人だった。
山に行って写真を撮ったり、花や野菜を育てるのが好きで、玄関はいつも花々で綺麗だった。

私は、父似で、どちらかというとお父さん子だったから、もう会えない事実が、たまらなく悲しいけれど。

これから先も                父の事は大好きだし、大切な家族だ。


 

人が1人いなくなるのは寂しくも悲しいことだけど残された人達は、生きていかなきゃいけない。


日々、お線香を焚いてお参りをして、     お花や、好きだったものをお供えする。    その度に、父の事を思い出す。        思い出す人がいる限り            きっと、ずっと人の心の中には居続ける。

        


母は、父のお給料日に父の好物を作るような人だ。                    今も、月命日に好物を備えてるのを見て。   母の愛もまた、続いてるのだと思った。



あなたの娘でいられて、幸せだったよ。    育ててくれてありがとう。     

いつか、そちらに行くその時まで       遠くから見守っていて。

画像1





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?