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【小説】あの海に落ちた月に触れる③「世界で一番大切な女の子と、それ以外の女の子」

前回

 陽子が寝息を立てはじめたのを確認してから、ベッドの布団をかけた。それから電気を消した。
 リビングに行って電気を点ける。四人掛けのテーブルの他に小さなテーブルがあって、その上にはウィスキーの瓶と煙草、そして灰皿が並んでいた。子供が生活する空間に煙草を残しておくなよ、と思う。

 煙草の箱とライターと灰皿を持って、ベランダに出た。
 涼しい風が吹き抜けた。六階の風は地上とは、やはり違っていた。
 下を眺めると、つつましい夜景が広がっていた。決してきらびやかでないところが田舎らしい。
 僕は煙草を咥え、火を点けた。
 煙が空に漂うのを眺めていると、薄くぼやけていた過去の記憶がよみがえってきた。

 それは丁度、一年前の夏休みだった。
 一緒にいたのはミヤで、姉から煙草をくすねてきていた。僕らは家を抜け出して、夜の町を歩いた。煙草が吸える場所がどこかないか、と。
 しばらく彷徨い歩いた結果、神社へ行こうとなった。

 夜の石段は危なく、僕とミヤは普段よりも慎重に足を動かさなくてはならなかった。そうして辿り着いた神社には当然、人はいなかった。
 僕らは真っ暗な境内の真ん中に座り込んで、煙草を咥えた。
 一瞬だけ灯されるライターの火は、ちっぽけだったけれど、僕らをわくわくさせるのには十分だった。
 煙草を一口吸って、二人とも咳き込んで、真っ暗闇で互いの顔もろくに見えないのに笑い合った。

「煙草ってまじぃな」
 ミヤが先に言って、煙草の火を地面に押し付けて消した。
「そーだな」
 と言いつつ、僕はしばらく苦い煙の味を口に含ませては吐くを繰り返した。
 そうすれば大人になれると期待してみたが、まずいものはまずくて、結局は半分くらいで火を消した。

 僕とミヤは黙って地面に寝転んで、空に浮かんだ星を眺めた。月はなかった。特別、綺麗な星空という訳でもなかった。普段と変わらない、夜空だった。
 生ぬるい空気がじっとりと僕らに纏わりついていた。
「暑いな」ミヤが言った。
「そーだな」
「中途半端だなぁ」
「なにが?」
「暑さ」
「そーだな」
「行人はさ、不安になったりしねぇの?」
「何に?」
「いろんなこと。だけど、例えば西野さんと一緒にいられなくなるかも、とか」

 秋穂のことを皆、西野さんと呼ぶ。
 当然と言えば当然だけれど、僕はいつも秋穂の名字に違和感があった。それは僕が殆ど、秋穂のことを西野さんと呼んだことがないからだった。

「別に僕は秋穂と付き合っている訳じゃないからなぁ」
「でもさ、いつか西野さんだって誰かと付き合ったりするんだぜ? そーしたらさ、キスしたり裸を見せたりする訳だろ?」

 胸の奥が強く握り締められたように痛んだ。安い感傷だが、僕にとって何に替えても重要な痛みだった。
「するんだろうなぁ」
「嫌じゃねぇの?」
「嫌だよ」
「なら、付き合っちゃえば良いじゃん」

 付き合う、か。
 それはどこか遠くの、僕とは関係のない国の言葉のように聞こえた。
「昔さ、秋穂と約束したんだ。ずっと一緒にいるって」
「へぇ」
「馬鹿みたいだけど。僕はその約束をちゃんと守りたいって思うんだよ」
「だから、付き合ったりせず、一緒にいようと思うって話か?」
「うん」
「付き合った上で、ずっと一緒にいるって選択はねぇの?」
「自信がないんだ」
 声が震えた。
「自信?」
「付き合って、ちゃんと秋穂とずっと一緒に居られる自信が僕にはないんだ」

 もっと言えば、僕は付き合わず幼馴染関係を続けていても、ずっと一緒に居られる自信はなかった。何か、よく分からない大きなものが決定的に僕らの仲を引き裂くんじゃないか、そういう類の不安が僕の中には渦巻いていた。

「俺だって自信ねぇよ」
 ミヤの声には果物を握り潰して絞り出すような悲しみが含んでいた。

 あの日、僕とミヤが吸った煙草は一本だけだった。
 そして、二回目の煙草を僕は陽子の家のベランダで吸った。苦い煙草の味を、ちゃんと最後まで味わい切った。
 あの頃よりも、僕は少しだけ大人になった。

 誰の目にも映らない進歩だけど、それは確かだった。

 ○

『陽子へ

 可愛い寝顔を見てたら、我慢できなくなっちゃいそうだったので帰ります。リビングにあった煙草を一本拝借しました。お父さんのかな? 怒られるようだったら、呼んでください。
 子供の目に届くところに置いている人が悪いと、言い訳しにやってきますので。
 夏休みの宿題、改めてありがとう。お礼、ちゃんとするよ。
 それでは、また学校で。
 
                        行人。』

 そんな手紙を残して、朝方の五時くらいに陽子の家を出た。帰り道で、見慣れた人とすれ違った。

「あれ、行人くん」
 秋穂のお兄さんであるナツキさんだった。短パン、半そでのジャージ姿だった。
「おはようございます。走ってるんですか?」
「ん? たまにだけどね」
 真面目な人だなぁ。

 ナツキさんは僕とは逆方向に進んでいたのに、わざわざ立ち止まってくれた。
「この前のお土産、ありがとう。美味しかったよ」
「良かったです」
 西野家の人は本当に律儀だ。
 それは僕だから、という訳ではなく誰にでもそうなのだろう、というのが分かるからこそ僕は彼らが好きだった。

「それで、今日は朝帰り?」
 からかうような物言いだった。
「友達の家で勉強していました」
「へぇ。あ、そうか。行人くんたちは今年、受験だもんね」
 受験。
 夏休みが明けてもまだ、僕の中で現実味のない言葉だった。

「ナツキさん。岩田屋高校でしたっけ?」
「ん、そうそう。良い所だよ」
「秋穂も、ナツキさんと同じ高校に行きますかね?」
「どーだろうね? まぁ、家からそれほど遠くないし、特別な理由がない限り、岩高じゃないかな。行人くんは?」

 口ごもった後、僕は言った。
「少しだけ、学校に行かないって選択もあるかな、って思っています」
「中卒ってこと? それで、どーするんだい?」
「働きます。選ばなきゃ、仕事はあるでしょうし」

 お金さえあれば、家から出ることができる。兄と顔を合わせずに済むのであれば、働くのも決して悪くない。
 ナツキさんが少し考える顔つきになって、進行方向を指差した。
「そこのコンビニで缶コーヒーでも奢るから、そっちで少し喋らないか?」
「ぜひ」
 と僕は肯いた。

 高校に行きたくない、そういう気持ちを口にしたのは初めてだった。両親にさえ言ってないことを、ナツキさんに言ってしまった自分が不思議だった。

 陽子と待ち合わせしたローソンで、ナツキさんはよく冷えた缶コーヒーを二つ買ってくれた。朝方のコンビニは人がいなかった。アルバイトの中年男性が不機嫌そうな表情でレジに立っているだけだった。
 ローソンの小さな駐車場の車止めブロックに立って、缶コーヒーを飲んだ。

「さっきの話だけどね。いろんな考えを持って行人くんが、そういう思いを抱いているってのは良いことだよ。ただ一般論を言わせてもらえれば、行人くんは高校に行くべきだよ」
 一般論。好きじゃない言葉だった。
 けれど、ナツキさんが言うと悪くない響きだった。

「高校に行って、僕は何をすべきなんでしょう?」
 無駄な時間を過ごすくらいなから、働いてお金を稼いだ方が有意義じゃないだろうか?
「何をするべきか、を捜しに行くべきなんだよ。今の僕もだし、行人くんもだけど、まだ色んなことを知らないんだよ。言うなれば、センチメートルの概念しか僕らは知らないんだ」
「センチメートル?」
 すぐに浮かんだのは、三十センチ物差しだった。

「つまり、僕らは目の前にあるものを、センチメートルの概念で、その大きさを測ることはできる。けど、リットルやキロ数を知らないんだ。測定の概念の幅を広げる努力をしなければ、世界は広がらない。ずっと狭い世界で生きていくことになっちゃう。それは詰まらないだろ?」
 分かるかい?
 という顔でナツキさんが僕を見た。

 分かる気がした。それはつまり、視野の問題なのだ。視野が狭い人間には、なりたくない。
 けれど、と僕は言った。
「学校に行くことが、世界を広げることに繋がると、僕は思えないんです」
「うん。それはその通りだよ。だから、考えるべきなんだよ」
「なにを?」
「周囲の人間が高校に行く中、高校に行かないって選択を取ることで広げられる世界は、どんなものか、を」ナツキさんがにっと笑った。「そして、学校に行くことで広げられる世界は、どんなものか、を」

 分かりました、と言ってナツキさんの言葉を飲み込んだ。理解できているとは、到底言えない「分かりました」だった。
「ちなみにさ、行人くん」
「はい」
「秋穂のこと、好きじゃなくなったのかい?」
 何を言っているのだろう、そんな訳ないじゃないか。

「好きですよ」
「なら、一緒の学校に行けばいいんじゃないか」
「好きとか一緒にいるとか、そういうものだけで、秋穂の横に居て良いのかなって少し考えちゃったんです」
 本当に、そんなあやふやな感情論だけで僕は秋穂の隣に居続けられるのだろうか。少なくとも、今の僕はそれを疑っている。

「ふーん」
 ナツキさんが缶コーヒーを飲み、「相変わらず、うちのお姫様は愛されているなぁ」とぼやくように言った。そこには少し誇らし気な感情も含まれているように思った。

 僕はあえて何も言わなかった。

 ○

 夏休みの宿題を提出した日の放課後、秋穂の家を訪ねた。

 相変わらず秋穂はテレビ画面に向かって、ゲームコントローラーを操作していた。僕は秋穂の隣に座って、学校のことを喋るでも、僕の近状を喋るでもなく、ただ彼女のゲームプレイを眺めた。
 一時間くらい、二人並んでテレビ画面に座っていた。その間で交わされた会話は、五分に満たなかった。帰り際に秋穂のCDラックが目に入った。

「何かCD借りていっても良いかな?」
 と僕は言ってみた。
「いいよ」

 秋穂の許可が下りたので、CDラックのタイトルを指先で追った。
 三十枚か、四十枚くらいの数が、そこには並んでいた。殆どが女性ボーカルだった。爪先にこつんと当たったのが「DREAMS COME TRUE」のCDだったので、それを借りた。

「じゃあ、また来るね」
「うん」

 家に戻ると、母親が昨日の外泊についての嫌味を言ったが、僕は適当に謝って部屋に引っ込んだ。制服を脱いで、部屋着に着がえてから借りたCDをコンポで流した。
 二時間くらい繰り返し聞いていると、すごく懐かしい匂いが蘇ってきた。
 昔、父が乗っていた車の匂いだ、とすぐに思い出した。

 僕は小学二年生の春から、四年生の冬まで親戚夫婦の家に預けられていたことがあった。その親戚の家に行く時に乗せられた父の車内で僕は「DREAMS COME TRUE」の曲を聴いた。
 父は同じCDアルバムをずっと流していた為、親戚夫婦の家へ行く数時間、僕はドリカムのボーカル吉田美和の声を聴き続けた。
 当時の僕は生傷が絶えない状態で、車が揺れる度に腕の痣がずきずきと痛んだのを覚えている。

 傷は全て兄から受けた暴力によるものだった。
 兄は学校で受けたストレスの全てを僕にぶつけた。家に帰るとランドセルを置いて、その足で兄は僕を殴った。暴力は一分で終わることもあったし、二十分、三十分と続くこともあった。
 僕は人と目を合わせられなくなって、人が近づくだけで肩を震わせて怯えるようになった。両親が僕と兄を遠ざけようとしたのは当然のことだった。
 親戚の家での生活は僕に安らぎをもたらした。地元の小学校に通い友達も出来た。僕は食事中に笑うことさえ出来るようになった。
 小学四年の冬、丁度、クリスマスの日だった、兄が親戚夫婦の家に現れ、僕に頭を下げた。

 人を許すこと、人を信じること、そういうことを親戚夫婦は僕に言った。僕は頷いた。そして、帰りの父の車の中でも「DREAMS COME TRUE」を聴いた。
 あの親戚夫婦の下で過ごした二年間で僕は僕という人間がまったく変わってしまったように感じた。
 しかし、親戚の家から戻ってきた僕を待っていたのは、以前と変わらない生活だった。兄は僕に傷を残してはならない、という学習をしっかりとしていた。
 が、暴力を振るってはいけない、という学習はし損ねていた。

 一度、兄はドジを踏んで僕の顔を殴った。
 その衝撃で歯が一本抜けた。
 親戚夫婦の家で過ごしたことで変わったと思っていたものは、結局のところ何も変わっていなかった。その事実を僕はうまく認めることができず、殴られて抜けた歯を近所の空き地に埋めた。
 誰にも見つからないよう、ひっそりと埋めて、少しだけ泣いた。変わったと思いながら、弱く何もかもに屈している自分が憐れで仕方がなかった。
 そんな歯が埋まった空き地で僕は陽子と知り合った。
 何の縁なのか分からないけれど、悪くないと思った。

 僕はコンポの電源を切って部屋を出た。
 そのまま玄関へ向かい、電気を点けて靴を履いた。鍵を持って、電気を消して外に出た。まだ生ぬるい夏の空気の中を僕はあてもなく歩いた。道路脇の歩道を歩いていると、隣を車が通り、それが不快で路地に入った。
 静かな住宅街の外れに自動販売機が目についた。煙草の自動販売機だった。
 そこで小銭を入れて、煙草を買った。

 未成年が自販機で煙草を買えないようにする為、タスポというのが導入される話をニュースで見かけた。でも、僕の町ではまだお金を入れて、ボタンを押すだけで煙草は買えた。
 システムは目で見る限りにはシンプルで、裏側がどれほど複雑化されようとも、今のところ僕には関係がなかった。

 ○

 コンビニでライターを買い、ふらふら歩きながら煙草を吸った。
 三度目の今回、煙草はやはり苦かったが、その後味を好ましく感じている自分もいた。
 僕は変わり続けている。
 小学生の頃のような、弱く何もかもに屈した僕は影をひそめている。けれど、当時の僕は僕の中にしこりのようにして残っている。

 外灯が薄い光を落とす暗い道を歩きながら、僕は何の前触れもなく昨日、陽子とセックスをしておけば良かった、と思った。
 どうして、そんなことが頭を過るのか分からなかった。

 ――エッチしたことある?

 同時に秋穂の問いも頭に浮かんだ。
 どうして、秋穂は僕にそんなことを尋ねたのだろう?
 秋穂は誰かとそういう行為をしたことがあるのだろうか?
 分からない。
 ただ、秋穂が僕ではない誰かとセックスをする瞬間を想像するだけで僕は心臓を握りつぶされるほどに苦しくなった。

 なのに、僕は今、陽子とセックスをしておけば良かった、と思っていた。
 寝ている彼女の唇を奪って、服を脱がして、体中に手を這わせて、彼女の形を確かめて、そして……。

 自然と足が止まった。
 例えば、横で眠っているのが秋穂だったら僕は間違っても彼女の唇を奪おうと思わない。それは秋穂が僕にとって特別な女の子だからだ。
 けれど、そうであるなら、同じように寝ている陽子の唇を奪わないのは、彼女もまた僕にとって特別な存在だからなのだろうか?

 違う。
 違うと思う。

 なら、陽子の日常が如何に親から見離され、怖い夢を見ると僕なんかに抱きつくほどだったとしても、彼女の唇を奪っておくべきだったんじゃないか?
 そうして服を脱がして、自分のものを無理矢理にでも彼女の中に押し込んでおくべきだったんじゃないのか?

 僕は今、あまりにも極端なものの考え方をしている。
 分かっている。
 分かっているけれど、考えない訳にはいかなった。

 秋穂を特別な女の子、世界で一番大切な女の子として扱うなら、それ以外の女の子にはぞんざいに扱わなければならない。
 誰にでも良い顔をするってことは、全員を選んでいるように見えて、誰も選んでいないと同義だ。

 ――じゃあ、エッチしたいって思ったこと、ある?

 また、秋穂の問いが浮かんだ。
 もちろん、ある。
 けれど、その相手は不思議なことに秋穂じゃなかった。秋穂じゃない誰かと僕はしたかった。

 僕の歪みは、矛盾は結局のところ、そこに集約されていた。


 つづく

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