【小説】あの海に落ちた月に触れる④「実体を持った神様が登場するなら、それは嘘っぱちか、未熟な神様だ」
部屋に戻って、テレビ画面を点けた。ヘッドフォンをつけて、プレイステーション2にAVを入れて、オナニーをしようと思った時、隣の部屋から怒鳴り声が聞こえた。
それが兄の声だとすぐに分かった。兄は誰かと電話で話をしているようだった。
こんな夜更けになんだろう?
と思い、ヘッドフォンを外した。兄の怒鳴り声や憤りの声を聞いていると、どうやら彼女に別れ話を切り出されているようだった。
昨日、美紀さんと話をしたことを思い出す。
――もう少し、成長したら、私のことも相手にしてね。
余裕たっぷりにそんなことを言う美紀さんを兄がどうこうできるとは思えなかった。別れ話は当然というか、ちゃんと電話でも別れ話をしてくれているだけ、マシというものだろう。
そういえば僕は美紀さんとそういうことをするのを想像できるだろうか?
……。出来ると思う。
秋穂でなければ誰でも良い訳だから当然、美紀さんであっても良い。
ただ、できればしたくない気持ちが僕の中に沸きあがってきた。
ふむ、僕にも人間的理性はあるようだ。
プレステーション2のコントローラーを操作し、ヘッドフォンをつけ直し、横に箱ティッシュを置いた。
しかし、途中で聞こえる兄の声に萎えて、僕はプレイステーション2の電源を落とした。下ろしていたパンツもジャージも履きなおして、ベッドに潜ってそのまま眠った。
夢を見た。
僕は教室で授業を受けていて、クラスメイト全員が席についていて、そこには不登校になっているミヤの姿もあった。教科書に目を向けると、何故かそれがエロ本だった。ふと周囲を見渡しても、皆エロ本を教科書にしている。
何の授業なんだろう?
と思いながら、エロ本を見ると、良い感じにエロい。年上の女性が半裸で、ポーズを決めている。
おぉ良い感じ。で、射精。
いやいや。
有り得ねぇだろ、と夢の中で呟いた。
現実に起きて布団をめくってみると、しっかり夢精をしていて、死にたくなる。童貞の妄想力って、こんなに非力なの?
ちゃんとセックスをすれば、夢のクオリティは上がるのだろうか?
○
空き地の奥にある三本の木の真ん中に背中を預けて煙草を咥えて、ライターで火を点けた。隣で制服姿の陽子も煙草を吸っていた。
横目で僕を冷やかに見ていた陽子は小さなため息をもらした。
「どうしたんだい? 行人くん。ぼくは君をそんな不良に育てた覚えがないよ」
「育てられた覚えがねぇよ」
陽子はいつもの人を小馬鹿にした笑みを浮かべた。
どこか安心したようにも見えた。
「うちの家の煙草を盗み吸ってから、ハマっちゃったのかい?」
「まぁ、そーいう感じだな」
「たかが煙草を吸ったくらいじゃあ、何も変わらないって言うのに」
「そーでもないよ。気分は変わる」
「悪い方にかい?」
「立て続けに吸うとくらくらするよな」
「まったく、肺に入れ過ぎなんじゃないかい?」
「そーかも知れない」
「けれど、まぁ行人くんの煙草の吸い方、意外と様になっているじゃないか」
「そりゃあ、どうも」
煙草の灰を携帯灰皿に落とす。「そういえば、陽子はいつから吸ってるんだよ?」
「ん? 中学一年にあがった春だったかな?」
「へぇ。なんかきっかけがあったの?」
「母と喧嘩したんだ。それで、母が吸っていた煙草を持ち出してね。きっかけと言えば、それかな」
「ふーん」
なんとなく、それ以上聞こうとは思えなかった。
「で、陽子。お願いってなに?」
陽子は吸っている煙草を携帯灰皿に押し込んでから、新しいのに火を点けた。その瞬間の表情には小馬鹿にした笑みは消えていた。
「行人くん、まずね、ぼくは嘘つきなんだ」と言った。
うん、と僕は頷いた。
口調からして嘘なのだから、基本的に陽子の言葉に信憑性はない。
ただ口調を統一して、その嘘を維持しようとする熱意は本物だとも思っていた。
「一昨日、宿題をしている時、ぼくには妹がいると言ったね? 覚えているかい?」
「なんだっけ、アメリカにホームステイ中で、言葉が通じないって泣き言のメールがくる?」
「それ、嘘なんだよ」
なるほど、と内心で頷いてから、浮かぶ疑問をそのまま口にした。「でも、家にはいなかったよな?」
「妹はね、入院しているんだ」
ほら、可哀相な女の子になり始めたぞ、と頭の中で誰かが呟く。
「病気なの?」
頭の中の誰かが更に続ける。
なんだ? なんで、お前は深刻そうに声なんて震わせているんだ?
え、なに勝手に同情してんの?
やめろよ、そんなキモいこと。
陽子は煙草を咥えて煙を吐きだし
「病気なんだが、病名はないんだ。医者が言うには前例のない病気だそうでね。大きな病院に何度も検査入院したんだ。その都度、ぼくもついて行ってね、その結果を訊いた。でも、みんなお手上げだって言うんだよ。真面目な顔でね。仕方ないから、家に一番近い槻本病院に今は入院しているんだ」と言った。
そんなことが本当にあるのか僕には分からなかった。陽子は自分を嘘つきだと言う以上、話半分に聞くつもりだった。
「その妹とお願いは、どう繋がんの?」
「うん」
頷いて陽子は煙草をまた携帯灰皿に入れ、新しいのを咥えた。ライターの火は中々点かなかった。
カチ、カチ、カチ、カチ……と陽子が点火ボタンを押す音だけが続いた。僕は自分のライターを陽子の方に差し出した。
陽子は差し出されたライターを見つめた。その時の陽子の顔は無防備で、幼かった。
「ありがと」
陽子はライターを受け取り、咥えた煙草に火を点けた。
「妹がね、毎週金曜日に病院を抜け出しているんだ」
「どういうこと?」
灰がこぼれて、僕のズボンに落ちる。手で払い手の甲が灰で汚れる。
「分からないんだ。ただ、金曜日の夜に病院を抜け出して、土曜日の早朝に戻ってくる。それを繰り返しているんだそうだ」
「ふーん。どこへ行っているのかは知ってんの?」
「病院の近くにある山だって妹が看護婦に言ったんだ」
「山? またなんで?」
「探し物をしているんだとか」
陽子が口もとを引きつらせるように笑った。
「なにを、捜してんの?」
「神様」
探して見つかるもんなんだろうか?
○
陽子のお願いは以下のようなことだった。
妹、朝子が本当に山に行っているのだとして、そこで彼女は何をしているのか? 本当に神様を探しているのか、それを突き止めて欲しい。
話を聞いて浮かんだ疑問を口にした。
「陽子が自分で行くのじゃダメなの?」
少し躊躇った仕草の後に陽子が言った。
「ぼくじゃあ駄目なんだ」
何か理由があるのだろうけれど、詳しく語るつもりはないようだった。
仕方なく僕は次の疑問を口にした。
「ただの同級生の僕よりも大人に頼むほうが確実じゃない?」
「大人は何か起こるまでは静観する姿勢なんだ。もちろん、朝子が抜け出す度に叱ってはいるようなんだけど、あまり効果は望めていないんだ」
陽子の話が本当だとする。病名の分からない病気を患った朝子の気持ちに立ってみると、不安から自分勝手な行動にでるのも納得はできる。
陽子のしようとしていることは、もしかすると朝子と大人の関係において余計、と言えるかも知れない。
けれど、部外者である僕がその部分に口だしをするつもりはなかった。
「ちなみに僕に門限があるかも、とかは考えなかったの?」
「行人くんは一昨日、ぼくの家に泊っただろう? 門限があるにしても、それほど苦労もなく親を誤魔化すことはできるんじゃないかい?」
陽子がにっと笑った。
なるほど。
何はともあれ、僕は陽子に夏休みの宿題を手伝ってもらった。
キャッチボールで言うところのボールを投げて受け取ってもらったのだ。そのボールをまた投げて返してくるのだから、可能な限り受け取ろうと思う。
僕が投げたものよりも球威が速く、角度が急であったとしても空中にボールが飛行する限りは文句を言わず、足とグローブを動かす。
ボールが地面に落ちてから、文句なり言い訳なりをすることにして、そして、グローブにボールが収まったら、また投げ返そう。
ん?
ということは、次は僕がお願いする番なのか。
まぁ、お願いは決まっているか、セックスをさせて下さい、だな。
もう、あんな惨めな夢精はごめんだ。
○
安藤朝子の後を追う準備を始めるも、彼女が何時頃にどのルートから病院を抜け出すのか分からず、陽子にメールした。
実は陽子の母は朝子が入院している病院に勤めていて、夜勤などで家を空けることが多いのだと知った。そして、朝子が抜け出すのは夜の十二時をまわってからで、基本的に裏口か、裏口付近にあるトイレの窓からとのことだった。
一度、朝子は正面玄関から堂々と病院を抜け出してもいた。
朝子は密かに病院の合鍵を作っているのではないか、と病院側というか、朝子の母は疑うも、それらしいものは出てこなかったらしい。
朝子の後をついて行こう、と陽子は母に提案したそうだが、却下されてしまった。というのも、どう抜け出しているのか分からないし、看護婦の人たちも仕事があって病院にいるのだから、決して暇ではないのだ。
その話をメールで読んだ時、僕はなるほどと思った。
大人たちはサッカーのゴールの真ん中に立っているような状態だった。正面に蹴った、手を広げて届く範囲のボールは止めるけれど、わざわざ横へと蹴られるボールは止めない。
その結果、ゴールネットが揺れようとも、真正面に立ってゴールを守っていましたよ、という大義名分は成り立っている。
なんとなくだが、僕は大人のそういう態度を悪いとは思わなかった。
少なくともゴールを絶対に守ると息巻いているよりもずっといい。
例えば夜になったら朝子を縛ってしまうとか、部屋のドアに外から鍵をかけてしまうとか、そういう過剰なことはせず、あくまでゆるく構えている。とりあえず大人としてやっておかなければならない対策はするが、それを超えるのであれば後は好きに何処へ行っても良い。
そういうスタンスは時に決定的な事件を起こすこともある。
ただ僕ら子供からすると、そういう自由にできる隙間を与えてもらうことでしか感じ、考えられない種類のことがある。隙間を貰ったからこそ正常に世界を眺められて、その視点だけで普段の生き難さみたいなものが僅かかも知れないけれど払拭できたりするのだ。
僕は夜の十一時を過ぎてから、家を出た。
自転車で朝子の入院している病院へ向かった。
遠くで地鳴りのような音が聞こえ、それが車やバイクのエンジン音だと分かった。走り屋が深夜に走っているのだという話を以前、兄から聞いたのを思い出した。車やバイクで深夜、走り回ることに、どれほどの楽しみが見いだせるのか僕には分からなかった。
病院へ行く道の間にあったコンビニに寄り、お菓子やジュースを千円分買った。
ビニール袋はそれなりの重さになった。
病院前に自販機があったので、そこで缶コーヒーを買って飲みながら朝子が出てくるを待った。
手持無沙汰な気持ちなり、朝子が探そうとしている神様について考えてみた。
たいしたことは浮かばなかった。
もし、本当に神様がいるのだとしたら、彼はこの世界を見守ることしかできないだろうし、それはどれだけの時間が経とうと変わらない。人間は存在しない、反応が返ってこないものとの関わりをもって、想像力を発達させてきた、と僕は思う。
だから、神様が人間を作ったのだとしても、神様は人間の想像上にしか存在してはいけないし、もし実体を持って神様なんてものが登場したら、それは嘘っぱちか、未熟な神であるはずだ。決して全知全能な、全てを包み込むような絶対神ではない。
神様は考え方の一つでしかないのだ。
僕は神様をこう考える、というように。なので、本人に聞くのが一番だ。朝子の想像する神様はどういうものか。
そこまで考えて、違う違うと僕は自分の考えを否定する。陽子のお願いは、朝子が何をしているかを尾行して突き止めることだ。
実際に朝子に接触して事情を尋ねたいと思っているのは僕の好奇心でしかない。
サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。