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【小説】あの海に落ちた月に触れる⑩「神様の音の中での誓いの叫び」

前回

「うわぁ」
 陽子がこけそうになって、わたわたと両手を振り回していた。何度かたたらを踏むようにして、バランスを取って陽子は僕を見た。

「ここが、朝子の」
「うん」
 正確にはここから見えるもの、聴こえるものが朝子の神様だけれど、僕はそれを言わなかった。いずれ分かることだから。

「綺麗だね」陽子が町の光を見て言う。
 そうだね、と頷いた後、「陽子、もうあの中二病みたいな、変な男口調で喋るの、やめたの?」と訊ねた。

 陽子は僕を見て、薄く笑った。
「うん。あれは、朝子の為にやっていたことだから」
「どういうこと?」
「朝子の病気に病名はなかったの。ただ一つ法則があって、私が触れると朝子はひどく苦しんだんだ。両親が触れても、看護婦でも、友達でも大丈夫だったんだけど、私だけが駄目だったの」
「なんで?」
「分かんない。
 けど、私が近づいたら朝子は苦しむってことだけは分かった。それでもお互いがお互いを大切にしているって、伝え合う方法なんて幾らでもあるし、何とでもなるって思った」

 僕は小さく相槌を打った。
「だけど、果物の一部が腐れば、それが全体に広がるように私たちは触れ合えない。その事実一つで私たちの関係は容易く崩壊した」
 僕は何も言えなかった。
「何が悪かったんだと思う?」
「分からない」
 と僕は答えた。

「私は、分からないことが悪いんだと思った。私の何かが朝子を傷つけている。だから、私は私というものを変えてしまおうと決めた。呼吸のリズム、歩くスピード、喋り方、そういうものを徹底的に変えてみたんだ。煙草もその一つ。お母さんが煙草吸ってたしね。でも、さすがに社会的な、他人が見て思い描く私を変えることには躊躇があって、だから学校では普段通りの優等生な自分、外では以前とは異なった自分に分けてみたんだ。意味なんてない。ただ、朝子の為に何かをしていると思わないと辛かった」

 でも、じゃあ、それは。

「そんな時に、朝子が金曜日の深夜に抜け出すようになった。分からないことに私はもう疲れていた。毎日、目を覚ます度に、後悔するんだ。夢の中にもっと居たかったって。夢の中なら、分からないことに怯えなくて良かったから」

 怖い夢を見るんだ、と陽子は言っていた。
 それは嘘だったのか?
 いや、それも本当なのだろう。
 現実も夢も陽子からすれば怖いものだった。

「少しでも分からないものを減らしたかった。何か行動をし続けたかった。だから、行人くんに朝子の尾行を頼んだんだ。こんなところに朝子は来てたんだね」
「うん。ここでさ、未来予想図の話をしたんだ」
 と僕は言った。朝子の返答は夢の中で聞いた。あれを夢だとするのは簡単で、だけれど時間が経つにつれて夢は現実だった。僕はそうとしか思えなくなっていた。

「行人くんの未来予想図って?」
「好きな女を毎晩抱いて眠ること」
「うわぁ」
「おい、朝子と同じ反応してんじゃねぇーよ」
「いやいや、行人くん。それはキモいよ」
「何でだよ! 一途じゃん?」
「だって、その好きな女って、秋穂のことでしょ?」

 僕は黙る。
「沈黙は肯定の証だよ」
「うるせぇ。で、朝子の未来予想図を聞いたんだよ」
「なに?」
「お姉ちゃんと手を繋いで外を歩くこと、だってさ」
 次は陽子が黙った。

 僕も口は開かず、夜の町を眺めていた。
 遠くで車のエンジン音が聞こえた。

 あ、来る、と思った瞬間には、エンジン音は獣の唸り声ように響く。音はすぐさま爆音となって、歌のようなリズムを刻む。

「これ、なに?」
 と、陽子が言った。
「歌ってる、みたいだろ?」
「歌? これが朝子の神様?」

 そういえば神様かどうか、と僕は朝子に訊ねなかったな、と今になって気付いた。
「MR2っていう車らしいよ」
「MR2……」
 爆音は続く。

 MR2は町中をのたうつように走る。
 確かな憤りを含んでいて、僕は運転手に思いを馳せる。男か、もしかすると女かも知れない、その運転手の感情だけを僕は確かに受け取る。世の中は窮屈で、鬱屈していて、詰まらない。
 けれど、そんな世界で僕たちは生きていかなければならない、憤り。

「うわぁあああああぁああぁああああ」
 陽子が叫んだ。

 釣られるようにして僕も叫ぶ。ありったけの力を混めて、窮屈な世界に対しての憤りと共に声を枯らす。
 爆音はそれに応えるようにリズムを変えた。
 そして、町から離れて行った。

 僕と陽子は互いに顔を見合って、小さく笑いあった後に、少しだけ泣いた。
 もういない朝子の為に僕たちは泣いた。

 ○

 最後に僕はポケットに突っこんでいた、ビニールの塊を取り出し、中の白い歯を掌に転がした。

「なに、それ?」と陽子が言った。
「歯」
「歯? なんで、そんなものが」
「乳歯なんだけどさ、よく言うじゃん。抜けた乳歯は屋根に投げると丈夫な歯が生えてくるって」
「うん、って、それ乳歯なの? 誰の?」
「僕の。昔、埋めちゃったんだよ。で、最近、掘り返されちゃってさ。捨てるなら、ここかなって思って」

 言って、僕は歯を思いっきり夜の町の光に向かって投げた。
 僕の弱さの象徴。
 何が欲しいのか分からず、生きた人間として扱われていなかった頃の僕。

 さようなら。

 ○

 翌日、コンビニの前で美紀さんと会った。
 僕は学校帰りで、美紀さんは友達らしい女の子と喋っていた。
 美紀さんは僕の顔を見ると、友達に一言告げて、こちらに歩いてきた。嫌味のない完璧な笑みを浮かべていた。

「やぁ行人くん」
「こんにちは、新しい恋人ですか?」
「ん? 私に百合な趣味はないよ」
「そーですか」
「なんだか、すっきりとした顔をしているね。童貞でも捨てたのかな?」
「まぁ、そんなところです」
「残念だなぁ、君の童貞は私が貰いたかったのに」
「慣れてる男の方が好きでしょ?」
「んー、時と場合によるね」
「そーですか。ちなみに、ミヤは元気ですか?」

 美紀さんの表情が一瞬だけ固まったが、すぐにいつもの完璧な笑みに変わった。

「ぼちぼちだよ」
「良かったです」
「今度、ウチにきなよ。歓迎してあげる」
「わかりました。多分、僕もミヤも喋らないかも知れませんけど」
「でも、ちゃんと人と会うってのは大事だからね」
「そうですね」
「歩の姉だってバレたら言おうと思ってたんだけど、私、行人くんのお兄さんと付き合った理由、行人くんに近づきたかったからって訳じゃないからね。ちゃんと、君のお兄さんのことが好きな時期はあったから」
「そんなこと、考えていませんよ」
「なら良し。じゃあ、また今度」
「はい」

 ○

 秋穂のお母さんに通されて、僕は秋穂の部屋の前で立ち止まった。まだ秋穂は学校に登校していなかった。そろそろ出席日数がまずかった。

 ノックをする。
 秋穂が応えて、僕はドアを開けた。
 テレビ画面の電源は点いておらず、秋穂は勉強机に向かって、熱心にノートに何かを書き込んでいた。勉強をしているようだった。

「ゲームは?」
「終わったよ」
 秋穂は手を動かしながら言った。

「何か変わった?」
「ううん、何も変わらなかった」
「そっか」
「行人は何か変わった?」
「いっぱい、変わった」
「そう。行人はそうやって、変わっていくんだね」
 突き放す物言いではなく、自然とこぼれた言葉のようだった。
 僕はしばらく考え、
「変わりたくなかったんだ」
 と、本心から言った。

「どういうこと?」
「僕はさ、ずっと秋穂の用心棒をしていたかったんだ」
 秋穂の手が止まった。けれど、それだけだった。
 僕は構わず続けた。

「寺山さんが不登校になって、ミヤも学校に来なくなった時、僕、すげぇ戸惑っちゃったんだ。今考えたら馬鹿みたいだけど、僕はみんな横一列になって一歩一歩大人になっていくんだって、思っていたんだ」
 当然、そんなことはないんだけどさ、とへらへら僕は笑った。
「みんな、知らず知らずに変わっていくし、それを止めることはできない。僕も僕が望まなくたって、変わってしまう。それでも僕は、秋穂の用心棒でありたかった」

「用心棒、懐かしいね」
 言って、ようやく秋穂が僕の顔を見た。
 本当に久しぶりに僕と秋穂は向き合った。
「私がお姫様で、行人が用心棒で。どうして、そんなことになったんだっけ?」
 秋穂が狡そうな笑みを浮かべた。
 覚えているけど、とぼけている顔だ。仕方なく僕が言う。

「海に落ちた月を見た時だよ。あの時も、秋穂は学校に行かなくなってて、で一緒に旅館に行って、僕ははじめて秋穂とキスをして膨らんでいない胸に触った」
「そんなことまで言わんでよろしい」

 小学五年の秋、秋穂は不登校になった。
 僕は秋穂に理由を訊ねなかった為、確かなことは知らない。ただ僕は何かと理由をつけて秋穂の家へ遊びに行った。
 そこで秋穂を心配した秋穂の両親が企画した家族旅行に僕も誘われた。兄との関係で家の居心地を良しと思えなかった僕は二つ返事で了承した。
 僕の両親へは秋穂の母が話を通してくれた。

「あの時に秋穂が泣いたんだよ」
「そうだったね」

 夜、二人でホテルの近くの浜辺に出て、秋穂は泣いた。
 自分の中にある全てを吐き出すような、容赦のない泣き方だった。僕は狼狽え、そして、約束をした。
 秋穂のこと僕が守るから、と。
 それが隣に立つ、王子様ではなくて、後ろに立つ用心棒として、というのが僕の自己評価の低さが窺えれるけれど、そんなことを力いっぱいに喋った僕に、秋穂は静かなキスで応えてくれたのだ。
 僕らを包んだのは潮の香り、細かに立つ波音、柔らかな砂浜の感触、そして、海面に落ちた月の光だった。

 何度かのキスをした後、秋穂は上のシャツを脱いで、僕に胸を触らせてくれた。
 汗ばんだ秋穂の胸は当然ぺったんこで、けれど心臓の脈打つ音を確かに手のひらに感じられて、僕はそれが愛おしくて仕方がなかった。

「僕は秋穂が泣くのを見たくない、そう本気で思ったよ」
 秋穂はしっかりと僕を見据えていた。「けど、それは私じゃなくて、他の女の子でも一緒じゃないの?」
 寺山凛の顔が浮かび、安藤陽子の顔が浮かんだ。

「多分、夏休み前、いや一学期の最初の僕だったら、分からないって言っていたと思う。僕は秋穂と他の女の子を比べたりしなかったから」
「でも、今はちゃんと私と他の女の子を比べたんだね」
 言い訳だけれど、そんなつもりはなかった。ただ自然と僕は秋穂とその他の女の子を比べていた。

「比べたんだと思う。けど、結果はやっぱり僕は秋穂を特別に思うし、大切にしたい」
「そっか」
「怒ってる?」
「なんで?」
「勝手に、秋穂と他の子を比べたこと」
「そんなことないよ」
 言って、秋穂は僕に近づいてきた。手を伸ばせば届く距離だった。「行人、お姫様はね、待つの。それが仕事なんだよ?」

 なるほど、確かにその通りだと思った。僕は秋穂の肩に手を乗せ、ゆっくりと胸に引き寄せた。
「ずっと待ってくれてたの?」
「待ってたよ。ゲームしながらだけど」
「あはは」
「ねぇ、行人」
「なに?」
「傍に居てくれる?」
「いるよ」

 幼稚な誓いだった。
 けれど、僕にとって切実な誓いであり、願いだった。
 

 

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