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日記 2021年10月 「失ったり、夢破れたり、負けた」僕は何者でもないまま、考え続ける。

 10月某日

 臨床心理士の東畑開人の記事を読んで面白かった。

 記事の中で「物語というと、最後は“勝つ”物語をみんな考えるわけですよね。勝ち抜いたり、大逆転したり、個人化した世界で勇ましい言葉ばかりが語られてきたのだけど、そうではなくて何かを失ったり、夢破れたり、負けたりしたときの物語が必要なんです。そんな物語こそが、茫然自失としたところに新しい羅針盤を作ってくれるのだと思う」とあって、その通りだなと納得した。

 僕は村上春樹の小説が大好きだけれど、彼の小説は常に何かを喪失したり、その予感を提示されて終わってしまう。「勝ち抜いたり、大逆転したり」って言うものから程遠い物語のような気さえする。
 それでも、村上春樹の小説を読んでしまうのは、そこに「何かを失ったり、夢破れたり、負けたりし」て「茫然自失とし」た瞬間が描かれているからだと改めて思う。

 ツイッターで誰かも言っていたように記憶しているけれど、村上春樹の主人公はどんなに厄介な状況に置かれ、深い喪失の中にあっても、生活を手放さない。洗濯をしてシャツにアイロンをかけ、小さな手間をかけたパスタを作って、筋トレをおこなう。
 その一つ一つは地味だけれど、それらは間違いなく明日を生きる糧になっていて、僕はそういう細部を描いてくれる小説家が好きというのは間違いなくある。

 10月某日

 金原ひとみデクリネゾン」の更新は月末に行なわれる。
 9月末に18話の「混然一体のバナナリーフ」が更新され、最高に面白いけど、そろそろまとめに入っている感じもあって、終わらないでくれ!という気持ちで読み進めた。

 18話では主人公の天野志絵が自分の根本に行動理由を明確に語っていた。

 思えば私は、ずっと盲目的な恋愛をすることによって誰かを我が世に君臨させ半分意識的に自分を操っていたのかもしれない。そしてその果てに生まれた理子にそのバトンは渡された。そして再びそれを失い、君臨ではなく並走を望む蒼葉と結婚し、私は今一人だ。

 なんとなく、身につまされる思いになったのは、僕の20代は「誰かを我が世に君臨させ半分意識的に自分を操っていた」節があるからだった。
 それは恋愛ではなく、ホモソーシャルな男性社会における上下関係だったけれど。

 僕の年上の男性がいる場でのお酒の席の求められた役割を演じる感は自分でも感心するものがある。
 そんなスキルもコロナが全てを吹っ飛ばしていった感じはあるし、今から振り返ると有難いことでもある。
 僕は今一人だ。

 今後、どんな道を選ぶにしても、もう「誰かを我が世に君臨させ」ることをしたくないと思うと同時に、それがどんなに不自由で、しかし楽だったか、ということも実感としてある。
 とはいえ、楽な道は選ばない。選ばないでいたいと思う。

 ちなみに文藝の2021秋には金原ひとみの「狩りをやめない賢者ども」という中編は中学生の女の子、玲奈が主人公だった。読んでいて、「デクリネゾン」の志絵の娘の理子と重なった。

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「狩りをやめない賢者ども」の玲奈の母親は夫とは別に恋人がいて、週に二、三回家に帰って来ない日がある。
 って、それは「デクリネゾン」の志絵もそういう時期があったじゃん、となる。

 金原ひとみ、という作家の面白さは、まったく別の話なのに、ゆるく関連やキーワードが重なっていて、別物なのに別物とも思えずに読まされてしまう、という点を挙げられるのかも知れない。
 ちなみに、今年の夏に出版した金原ひとみの「アンソーシャル ディスタンス」という短編集があるのだけれど、現在その中の一編「ストロングゼロ」が全文、無料で試し読みできるようになっている。

 優れた短編で、新潮が令和元年に出版した「平成の名小説 永久保存版」にも収録されている。あと、個人的にエッセイで書いたこともある。
 金原ひとみの「ストロングゼロ」は間違いなく面白いので(とは言え、酒とセックスばっかりの小説だけど)、よければ読んでみてください。

 蛇足として一つ、「ストロングゼロ」は付き合っていたイケメンの彼氏が突然、「どうしよう」と「怖い」を繰り返して引き籠ってしまうことで、主人公はストロングゼロという缶チューハイに依存していくのだけれど、島本理生の「2020年の恋人たち」でも似たような構造があって、こちらも付き合っていた彼氏が引き籠ってしまう。
 この男性が肉体的にも社会的にも不能になってしまい、女性の足枷的な状態になる物語が2019年の平成の終わりに書かれ発表されていた、というのは少し面白い。

 10月某日

 評論家の佐々木敦が以下のようなことをツイッターで呟いていた。

 みんなメソッドばかり知りたがっていて、way of thinkingには興味がないんだな。
 自分の成功に利することしか摂取しようとしない。
 人文書でさえ売れてるのは広義の実用書、参考書、指南書ばかり。
 社会に余裕がないって、こういうことなんだなあ、、

 way of thinkingって「ものの考え方」ということだけれど、僕はどちらかと言うとメソッドより、way of thinkingに興味があるなと思う。
 ただ、ものの考え方って他人にアピールしにくい、というか、肩書きを作りにくい。

 最近ちょっと、noteをもっと読んでもらう為に肩書きというか、さとくらってこういう奴なんです、っていう自己アピールっぽい記事を書こうか、と考えていた。
 けど、なんとなく僕はこういう奴って分かんない方が今は良いのかな、という結論に至った。

 小説を書くし、エッセイも書くし、時々評論っぽいものとか、日記を書く、まとまりのない奴。
 それで良い気がする。

 僕はこういう奴なんです! って言い出してしまうと、他の部分を削ぎ落さないといけないし、多くの人に何かの肩書きで認知されると、その通りに動いて消費されて終わってしまう気もする。

 庄司薫の「白鳥の歌なんか聞こえない」で「偉い人にはうかつに近づくな。こっちに十分の力がないうちは、むしろ逃げて逃げて逃げまくれ。」とあって、二十代の僕は常に頭の片隅で唱えてもいた。

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 三十歳になった僕はまだ「十分の力がない」ので「偉い人」にも、色んな人に認知してもらうことにも「逃げて逃げて逃げまく」っとくべきだよな、と思う。

 いつになったら「十分の力」がつくんだろう。分からないけど、今は力不足であることは間違いない。
 などと書きつつ思うのは、この乱雑な内容をぽんぽん語っていく日記の形式は僕のway of thinkingを明かしているようなところがあるな。

 まったくロクなことを考えていない奴だって明かしている気がして恥ずかしい。

 10月某日

 職場では数ヶ月に一度、上司との面談があって、最近どう?という話をする。
 今の部署や仕事環境に一切の不満がない僕はとくに言うことがないので、ほとんど上司との雑談になる。
 その中で「さとくらくんは部署移動する前と比べると穏やかになったよね」と言われる。
 そうですかね?と濁しつつ、確かにと思う部分もあった。

 前の部署はクレーム処理をする部分もあって、常に気を張っていたし、理不尽な目に遭うことも多かった。けれど、今の部署はそういう気を張っておく必要のないところで、仕事に対する心持ちが全然違う。

「まぁ穏やかなのは良いことだよ」
「心の余裕ができたおかげか、最近は周囲の人とも喋るようになりました」
「あー、ずっといじられてるよね」
「最近は、鬼滅の刃煉獄さんの生まれ変わりが僕なんですって言ってます」
「ホント意味分かんない」
 いや、僕も分からないですよ。

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 という感じで面談が終わる。
 ちなみに僕の煉獄さん生まれ変わりと言い張る意味不明な主張は、最近仕事を教えてくれる先輩との雑談の中で「夏に部屋に入ってきた蚊がうっとおしくて、蚊取り線香を部屋で使ったら大変になった」という失敗談で笑いを取ったら、「蚊取り線香の人」になり、その繋がりで「夏の終わりに花火を風呂場でするか真剣で悩んだ」と話を振った結果、「火関係ばっかやな」となって「強火くん」といじられ、そこまで言うなら「煉獄さんの生まれ変わりにしてください」という流れだった。
 書いていて思ったけど、やっぱり意味が分からない。

 僕の「煉獄さんの生まれ変わり」のボケに対し、最近は他の先輩が「煉獄さん好きの人たちに謝れ」というツッコミ?がきて終わるのがお約束になっている。
 煉獄さん好きの皆様、ごめんなさい。

 10月某日

カーニバル・ロウ」を見る。

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 Amazonオリジナルドラマで、主演は映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズでウィル・ターナーを演じたオーランド・ブルーム

 物語の世界観が少々特殊で、「産業革命期のイギリスに類似したバーグ王国」なるものが舞台で、そこにピックスと呼ばれる妖精が移住している、というファンタジー作品。
 社会的な題材としては移民問題だったり、階級社会なんてものを取扱いつつ、人間と妖精という種族の違う二人のラブロマンスが中心には据えられている。

 Amazonオリジナルドラマで配信される前から、続編(シーズン2)の作成が決定されていたのもあって、せっせと今後の展開への布石を置いて行くような部分もあり、最初の数話はしんどい。
 お金が掛かっているのも分かるし、描きたいテーマがいっぱいあるのも理解するけど、詰め込みすぎていて、どこを軸に見れば良いのかが3話辺りまでは掴みにくい。

 けれど、全8話の6話くらいからバラバラに散らばっていたキーワードが繋がっていくので、見てがっかりという作品では全然ないし、シーズン2が今から待ち遠しい終わり方も見せてくれる。
 海外ドラマの続きが気になる終わり方の作り方は本当に上手い。

 個人的な推しどころはどこだろう。
 オーランド・ブルームが演じた主人公のファイロのヘタレっぷりとか個人的に最高だった。なんだろ、イケメンで色気もあって、あっちこっちで女の子にモテるのに、根本に自信や確信を持てない男性って、個人的に好きな部分がある。
 ファイロに関しては、そりゃあそんなもんを抱えてたら、女性に心を開けないのも当然かぁと言うのも分かるし、それ故にヒロインのヴィネット・ストーンモス(カーラ・デルヴィーニュ)に惹かれるのも分かる。

 学園ドラマ的に言えば、ファイロは一軍男子でぱっと見は上手く振る舞っていて、ヴィネットは部活も生徒会とかも真面目にやっちゃう委員長タイプ。
 んで、そういう実直に物事を一つ一つやっていく女の子に外面だけ作っちゃって中身空っぽ系の男の子は惹かれたりしちゃうんだよね。
 僕はこの構図が大好きなんだよな、なんでだろ。

 中身空っぽな男の子が好きってのもあるし、真面目に地に足つけてやっていく女の子が好きというのもある。
 ただ、そういう二人がくっつくと、空っぽ系の男の子が他の女の子にホイホイ行ったりしちゃうから、あんまり幸せになれるイメージもないんだよなぁ。

 具体的に、いくえみ綾の「あなたのことはそれほど」とか、芦原妃名子の「Piece」とかは、そういう構造な気がする。

 話がズレた。
「カーニバル・ロウ」もファイロのヘタレっぷりからヴィネットと一度別れることになるのだけれど、まぁそれは戦争中っていう状況とかを考えれば仕方ないにしておくとして……、その後よ! 再会してからのファイロのうじうじっぷりはホントすごい。
 それに対してヴィネットの苛立ちは、そりゃあそうなるわ!ってなるレベル。

 ある意味「カーニバル・ロウ」は、このファイロのうじうじした自分の殻を抜け出す為の物語だった、と捉えることはできるし、そう考えると主要のキャラクターも男の子は揃いも揃ってヘタレたり、うぬぼれた幼稚さを抱えている(それを都合よく利用されたりもするし)。
 逆に主要の女性たちは大人というか、良くも悪くもブレない。

 父と母のバランスで言えば、「カーニバル・ロウ」は父の力が弱く、母の力が強い世界観で動いていた。
 見た人は分かるけれど、「カーニバル・ロウ」の父的存在は総じて酷い目に遭ってる(ホント何の恨みがあるんだってレベル)。

 という意味では、非常に女性的なドラマだったと見ることができそうで、少年漫画的な爽快感を味わいたい方にはちょっと勧められない作品でもある。
 結論、「カーニバル・ロウ」は少女漫画的な文脈で見ると面白い。

 10月某日

 明日がワクチン接種2回目。
 ということで、仕事から帰ってきてからシチューを作る。
 1回目の時は味噌汁を作って腐らせる、という痛恨のミスを犯したので、今回はシチューを腐らせない!というか、このシチューが駄目になったら二日分の食糧を失う。

 一応、冷蔵庫に林檎も放り込んであるし、冷凍食品もいろいろ買ってある。けど、シチュー好きだし、最後まで食べたい。
 あと、冷えピタが二箱と解熱剤。
 アクエリアスが2本。
 洗濯物は昨日済ませたし、一応そうじもした。

 まぁ大丈夫かな。
 ちょっと僕自身がわくわくしていて、ワクチン接種を楽しみにしているのが、我が事として心配している。
 なんか、そういう風に調子乗っている時の僕って大きな失敗をして、痛い目を見るんだよなぁ。

 何事もなく無事ワクチン接種が終わることを願いつつ。
 というか、現在深夜の2時半……、noteの更新とかせず、寝ろよと言われそうな時間だな、……いや、はい、すみません、寝ます!

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。