日記 2020年8月 物語の手を借りて、名前も知らない誰かの痛みに共感する。

 8月8日(土)

 昼過ぎに起きてトーストを焼いた。明太子のスプレッドを買っていたので、それを塗った。もう一枚はバターとチーズのトーストにした。

 最近、近所のスーパーではバターがしばらく入荷されない、という説明の張り紙がなされていた。けれど、職場近くの友人が行くスーパーでは普通に売られていたらしい。
 大阪でも地域や系列によって置かれる商品は異なってくるみたいだ。

 数日前からテレビでAmazonプライム・ビデオなどが見れるようになったので、気になっていた「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」を見る。

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 途中から、ポケモンGOのコミュニティ・デイをしながらだったけれど、面白かった。
 全12話を一気に見た。

 ちょっとハマって、あれこれ調べると、やっぱりと言うのも変だけれど、「小説家になろう」作品が原作だった。
 転生ものだから、そうだろうなぁと思ったけれど、このタイトルで乙女ゲーム原作だったら皮肉が効いていて良かったのに、と思う。

 話は面白いんだけれど、物語の事件が転生前の記憶と情報だけで解決されて行く流れは、もっと工夫できた気がする。
 とくにテーマがある訳でもなく、個々の個々のキャラの絡みが心地い作品だったのだけれど、ちょっとだけ物足りなかった。

 少し前に「Re:ゼロから始める異世界生活」の二期も見ていたのだけれど、4話で異世界から精神世界と称して現実世界に帰還する流れがあった。
 面白いなぁと思うのは、物語の中で現実は「異世界」で、虚構が「現実世界」となっている逆転現象だった。

「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」でも、同様の展開があった。
 主人公は現実世界では死んでいるので、乙女ゲーム世界が彼女の現実だ、というロジックだった。理解はできるけれど、本当にそれで良いのかな? と少し考えてしまった。

 夕方、ツイッターを見ていると、万城目学が以下のような呟きをしていた。

ドラマで大阪弁を流暢に操る菅田将暉さんを見て、そう言えば菅田さんのお父さんは私と同じ大阪の高校を卒業しているのだ、ということは貴志祐介さんと年齢近いのではと気づき、貴志さんの一学年下で菅田父氏が通っていたことを一分弱で調べ上げた私、かなり気持ち悪い。

 ほほぉ。
 更に以下のように続く。

あの高校に通っていたから、貴志祐介氏は『悪の教典』を書き(10年前に対談した際に、そんな話をしました)、たぶん『悪の教典』が何かしら下敷きになって『3年A組』が生まれたと思うと、とても不思議な因縁を感じます。

 うわぁ、めっちゃ面白い。
 大阪のとある高校に通っていたから、貴志祐介は『悪の教典』を書いた。あの物語の底には大阪という土地がらも少なからずあったとして、その土地の影響を持った菅田将暉は当初、『そこのみにて光輝く』や『ディストラクション・ベイビーズ』と言った暴力性が支配した世界の物語の重要人物を演じて行っていた……。
 そして、その暴力性は『3年A組』まで来ると、理不尽でありながら、ある程度制御されたものとなって、更なる下の世代に向けた教訓となった。

 土着性からの脱却というよりは、そこにある暴力の空気を飲み込んだ上で制御したような印象さえある。
 我ながら好意的な受け取り方ではあるけれど、教師が生徒を殴って当然だった時代から考えれば、今の社会は暴力というものを良しとしない態度を確立している。

 批評家の東浩紀が自らの小学生時代を振り返って、当時の担任が、女子生徒を罰として裸で教室に立たせていたことがある、と語っていた。
 ヤバい担任だと東浩紀は言っていたけど、ヤバすぎる。
 けれど、それが許される訳の分からない基盤がその時代にはあった。

 当たり前に暴力は良くないし、ハラスメントも駄目だし、性暴力なんて以ての外。
 そういうスタンスが当然だし、どんな理屈があっても、それを許容できない。

 ちなみに、『ディストラクション・ベイビーズ』という映画で菅田将暉が演じたキャラクターが「一度、女子高生を思いっきり殴ってみたかったんだよね」と言っている。

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 菅田将暉自身、すごい台詞だなぁと思ったとラジオで語っていた。暴力の先には常に自分よりも弱い人間へ弱い人間へと進んでいく。
『ディストラクション・ベイビーズ』はとくにその欲望が顕著に描かれていた。

 夕飯は簡単に冷やしうどんにして、ビールを飲んだ。
 外には一歩もでなかった。

 8月9日(日)

 朝、目覚めて朝食にクリームパンを食べた。甘いパンは時々、無性に食べたくなる。
 ツイッターを見ていると、小川洋子の文章が目についた。

 広島の原爆の日は8月6日。長崎は8月9日。そして終戦の日が8月15日。日本にとって8月は、死者を思う季節である。
 
 中略
 
 自分が生まれる前、遠いどこかで起こった無関係なはずの事実を、単に知識として得るだけでなく、直接の体験と同様に自らに刻み込み、記憶の小舟に載せて次の世代につなげてゆく。この困難を乗り越えるためには、政治や学問の助けだけでは足りない。なぜなら、他人の記憶を共有するなど、全く非論理的な足掻きだからだ。
 
 ここでは文学の力が求められる。理屈から自由になり、矛盾を受け止める必要に迫られた時、人は自然と文学に心を寄せるようになる。文学の言葉を借りてようやく、名前も知らない誰かの痛みに共感できる。あるいは、取り返しのつかない過ちを犯してしまう人間の、愚かさの影が、自らの内にも潜んでいないか、じっと目を凝らすことができるのだ。

 素晴しい文章だ。
 けれど、同時に文学でなくとも、「名前も知らない誰かの痛みに共感」したり、「取り返しのつかない過ちを犯してしまう人間の、愚かさの影が、自らの内にも潜んでいないか、じっと目を凝らすこと」はできるんじゃないか、とも思う。

 少なくとも戦争作品という枠組みで言うなら「この世界の片隅に」は外せない気がする。

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 昼過ぎに買い物へ出かけて、ウィスキーの瓶を買って、ハイボールにして夕方から飲んだ。

 ネットのニュースを見ると島根県で新たに92人の新型コロナウィルスの感染者が確認されていて、高校のサッカー部関連だと発表した。松浦市長は「新型コロナウィルス感染症は誰もがかかる可能性がある感染症。犯人探しやSNS上での誹謗中傷は厳に慎んでいただきたい」と呼びかけたと、ニュースにはあった。

 同時にツイッターで「ジロウ」という方が以下のような呟きを見つけた。

「コロナはただの風邪!」と主張してノーマスク運動(ノーマスク団体で山手線一周したりする)の人たちのツイートが流れてきて、それに「これ東京だから可能なんだよな。地方でこんなことしたら、もうその町には住めないだろ」というコメントがあり、なるほどと思った。都会ってそういうことだよな。

 更に以下のように続く。

都会では共同体のしがらみから自由になれるということについてはよく言われているが、そこで自由になるのは自分だけじゃなくて、自分とは分かり合えない他者も自由になるということ。

 新型コロナウィルスは色んな問題を浮き彫りにしているけれど、その中に都心部と地方の生き方の違いを如実に表していると改めて思う。

 以前も日記の中で書いたけれど、ネットがあれば皆が金持ちで平等になれるという幻想を「カリフォルニア・イデオロギー」と呼ぶらしいですが、本当にまったくの幻想だなぁと改めて思う。
 人がその土地や住民の影響を受けずに(ネットの世界だけで)生きることは本当に難しい。

 夜は鶏肉とキムチを卵で閉じたものをご飯の上に乗せて食べた。
 最近、明日コロナウィルスになって寝込んでも良いような買い物を、と思ってあれこれ買う為、冷蔵庫がもので溢れている。
 ひとまず、明日は外に出なくても済みそうだ。

 8月10日(月)

 朝、九時頃に目が覚めた。
 体が妙に重くて、布団をかぶった。最近、暑さのせいでベッドで眠るのがうっとおしくなって、隣の部屋のソファーの部屋で寝るのが癖になっている。
 単純にソファーの部屋にエアコンがあって、ベッドの部屋は扇風機しかない、というのも理由の一つにある。
 目が覚めた時はソファーの部屋でそのまま昼の十二時まで眠った。それから明太子のスプレッドをトーストに塗って焼いて、それを食べた。
 何か新しいアニメなり、映画なりを見ようと思ったけれど、気分が向かなくて「かぐや様は告らせたい」のアニメを見る。二週目だ。

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 時々、アニメでも映画でも、その世界に浸りたくなる。そういう時の僕は疲れているか、無気力かのどちらかで、新しいものを摂取できない。
 理由は多分、突然の気温変化に未だについていけていないんだと思う。口の中が異常に乾いて、アクエリアスやアイスコーヒーを飲むが、一向に渇きは消えない。
 ぼんやりアニメを見ていると、眠くなって抗うことなく寝た。

 夕方近くに起きて、パソコンの前でしばらく作業した後、映画「シン・ゴジラ」を見る。三回目の視聴だった。

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「シン・ゴジラ」のゴジラは3.11の震災と福島原発の比喩だと分かるように描かれている。
 3.11のあの震災の時に日本が選択すべきだったこと、それが「シン・ゴジラ」では描かれている、という解説をどこかで読んだ。

 確かにゴジラとは、どういう生態で、どのような対処が必要か、というロジックは原子力とは何か、どのように接していくかを紐解いていく過程のように見える。


 正確かどうかは置いておいて、3.11後の世界を「シン・ゴジラ」は捉え直すことができていると思う。
 であるなら、今僕らが直面している新型コロナウィルスも後から「シン・ゴジラ」のように捉え直すことが可能なのだろうか?

 そんなことを考えながら、「シン・ゴジラ」を最後まで見た。ラストは東京に鎮座するゴジラとの共存だった。
 今、僕たちの前にある新型コロナウィルスと共存できるのはいつになるんだろう。
 同時に新型コロナウィルスを比喩として物語を作る時、それはどんな姿をしているのだろうか。

 そういえば、「シン・ゴジラ」でゴジラが人類をもしも滅ぼしていたなら、その後に現れる世界はジブリのナウシカのような世界なのではないか? という解釈がなされていた。
 つまり、「シン・ゴジラ」は「ナウシカ・ゼロ」と捉えられるんだそうだ。

 それが本当かどうかは分からないけれど、新型コロナウィルスを物語に落とし込むのなら、ナウシカのような世界だったなら、納得できるなと思った。

 夜、つけ麺をスーパーで買っていたので、それを茹でて食べた。次の日が三日ぶりの仕事だから、早目に布団に入ろうと思いつつ、文藝別冊KWADEムック川上未映子という雑誌を読み始める。

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 コンタクトレンズを「目硝子」と表現する川上未映子の言語感覚はやっぱり凄い。

 あと、穂村弘との対談でスポーツについて聞かれて、

 (夫の)阿部に言わせると「俺は夢想する。あなたが本気で格闘技を志していたなら文学どころじゃない。絶対てっぺん狙えたはずの肩をもってる」って言うんだよね。「俺は本当に夢想する……」とか言って。運動神経はわからないけど、何かぴたっとくるものがあったらできたかもしれない。

 と答えていて、阿部和重って奥さんに対しても、こんな感じなんだ、と思って、ちょっと面白かった。
俺は本当に夢想する……

 ひとしきり笑って電気を消して眠った。

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