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日記 2021年9月 復讐するように幸せな大人を目指して、今日も美味しい料理を作る。

 9月某日

星野源のオールナイトニッポン」に若林正恭がゲスト出演した。

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 少し前に「あちこちオードリー」に星野源がゲストで登場もしていて、お互いのラジオで名前が出る頻度が上がっていた中での星野源のオールナイトニッポンのスペシャルウィークのゲスト若林正恭は、流れを知っている身としては、総まとめのような話が聞けるんじゃないか、と楽しみにしていた。
 実際の放送は本当に素晴しいものだった。

 自分が普通だと思ってやっていることが周囲からは普通だと見られない、という星野源の話はぐっときた。

「俺は、まっすぐやっているだけなんだけど。これが俺にとっての『普通』で。社会的には『普通』じゃないかもしれないんだけど、俺にとっては『普通』。で、あなたは自分の『普通』を社会の『普通』にねじれさせて、それを適応させてるんだから、あなたの方が『普通じゃない』んだよ!」って言いたいんですけども。

 確かに星野源は、インストゥルメンタルバンドSAKEROCKを結成したり、歌手活動に俳優業、エッセイストと多様な顔を持つ。
 周囲から見れば全部中途半端になって、どれも芽が出ず終わるんじゃないか?と思われても仕方がないような気もする。

 けれど、その仕方がない気になっている時点で「社会の『普通』にねじれさせて」いることになるんだろう、と思う。
 僕にとっての『普通』ってなんだろとか、その『普通』って社会の『普通』にねじれさせて適応させたものなのか、といろいろ考える。

 9月某日

 ミステリー作家で医者の知念実希人が芥川賞を受賞した『彼岸花が咲く島』の著者、李琴峰に対し、国籍差別をツイッター上で発言した。
 この件に関しては知念実希人が謝罪することで、ひと段落ついた。

 個人的に、二人のツイッター上のやりとりはリアルタイムで追っていたし、李琴峰がnoteにて即座に冷静な対応をされたものも読んだ。
 知念実希人の発言が如何に酷いか、という話をする気はないけれど、何人かの方がどうして知念実希人は、このような(国籍差別)発言に至ったのか、という点について考えていた。

 そのどれもを興味深かく読んでた。
 その中の一つに、ツイッターのツイートがバズり自分の意見が拡散され、言及や反応されていくことで、承認要求が拡大していき、それに伴うようにツイートの内容が過激化し更に攻撃的になっていった結果だというものもあって、ツイッターという場の問題がそこにはあるようにさえ思った。

 また、知念実希人を含めた著名人の失言の多くが「無邪気すぎる」と指摘するツイートもあった。
 無邪気であることが美徳だとされる場所や時期は確かにあると思うけれど、それは今じゃないし、SNSでもない。

 9月某日

 友人とマーベル映画『シャン・チー/テン・リングスの伝説』を見に行く。

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 公開されたのが9月の頭で、2週間ちょっと経過していたせいか、近所の映画館では昼にしか上映していなかった。

 友人には映画へ行くとなった時点で、監督のデスティン・ダニエル・クレットンがドラゴンボールZのファンだというネットニュースのURLを送った。

 ネットニュースの中で「私は『ドラゴンボールZ』を観て育ちました。孫悟空がかめはめ波を繰り出すクリップを、(プレゼン用資料の)一つとして見せたんです。『ドラゴンボールZ』では、悟空がかめはめ波を放ち、相手もそれに負けないパワーで互角の戦いが続くシーンがあるのですが、そのシーンは間違いなく『シャン・チー』のインスピレーションとなったものの一つです」と監督自身が発言していたの紹介されていた。

 ということで、映画を見た感想はドラゴンボールだった!なのだけれど、これはつまり日本的だったとは繋がらなくて、舞台は中国であり、マーベル・スタジオから見たアジアの印象が描かれたような印象だった。
 ドラゴンボールというコンテンツが今から見ると、大雑把な作品で、そこから着想を得れば、こうなるよねと言いたくなるくらい細部は雑で、描きたいことはあくまでアクションシーンで人間ドラマではない感がとんでもなくあった。

 あと、舞台は中国だけど、『シャン・チー/テン・リングスの伝説』は中国では上映されていない。
 そこには主演俳優シム・リウの過去の問題発言が原因というネットニュースも読んだけれど、単純に『シャン・チー/テン・リングスの伝説』は今の中国の人は楽しめないだろうな、と素朴に思う。

 予告編を見るだけでも分かるけれど、何十年前の中国のイメージで映画作ってんの?感はすごい。
 今の中国がどういうイメージ戦略を持っているのか知らないけれど、『シャン・チー/テン・リングスの伝説』のような目新しさのない古臭いものではないだろう。

 なんて文句を書くと湯水のように沸き起こる映画だったけれど、じゃあ面白くなかったのか、と言えば、そんなことはなかった。
 みんな言っているようにアクションシーンは凄かったし、マーベル映画内としても新しい勢力が一つ作られたので、それが今後どのような活躍を見せるのか、には期待感が持てる。

 9月某日

妻の飯がマズくて離婚したい】というWEB漫画を読んで、複雑な気持ちになる。

 既に完結していて、価値観の摺合せで落としどころを見つけて連載は終わっている。

 連載中に社会学者で小説家の岸政彦がツイッターにて【妻の飯がマズくて離婚したい】に言及していた。
 それが「これ思ったんだけど、妻のほうは単に料理が苦手っていうことよりむしろ、もっと食に対する積極的な憎悪があるよなー。トラウマというか。たんに苦手だから美味しくできないじゃなくて、「美味しくすること」に対して復讐してるかんじ」と言うものだった。

 復讐って確かに人間に対してだけ起こる感情ではない、と言うのは考えてみればそうで、自分の中にもそういう感情ってあるのかも、と疑い始める。
 ひとまず、僕の中にある事象に対する復讐は置いていて、周りを見渡してみると、この手の話ってある。

 例えば、お洒落。
 幼少期なのか、学生時代かは分からないけれど、お洒落によるしくじり、羞恥ないしトラウマによって小奇麗にしたり、流行の服を着るってことを極端に嫌い、お洒落している人間を積極的に貶していく。
 それをある種、パフォーマンス的に行うことで同様のトラウマを抱えている人間が集まってきて、一つのコミュニティとしてお洒落というものに対する憎悪をより燻らせていく。

 これは一つの例だけど、こじらせている上に幾重も捻じれてから、コミュニティが形成されると、引き戻せない場所にまで行きついてしまっている感じがある。

 ぱっと思いつくだけでも、知識や思想に関してや運動、労働、性とか生活そのものに対しても持っている人間もいるかも知れない。
 これって過去の自分だったりトラウマを正当化しようとする働き(あるいは、甘やかし)によって、起きているような気がする。

 人間って何かを守る時にとびっきり攻撃的になることに似ている。
 その攻撃が料理を美味しくすることだったり、お洒落をすることだったりに向くって可能性があるってことだ。

 あらゆる場合が想定できて、トラウマを乗り越える為に、一度料理を美味しくすることを憎まないといけない瞬間ってのはあるかも知れない。それがないとは言い切れない。
 けれど、一時期的にそういう憎しみや復讐のような気持ちを持たなくてはならなくなったとしても、それをちゃんと手放せる瞬間があって欲しいと思う。

妻の飯がマズくて離婚したい】はそういう復讐の気持ちがあった、という描写はないけれど、妻が美味しい料理を受け入れられたのは夫が過去に作ってくれた土鍋で炊いたご飯と、昔から自分を知ってくれている友人の存在が大きかったのは間違いない。

 トラウマを抱えて傷ついたあの頃の自分の味方になって、救ってやれるのは今の自分だけだって、頑なに復讐をやめずにいる人もいる。
 って書いて気づくけど、僕は今まで出会ってきた人の中に、そういう過去の自分を正当化するために、(例えばだけど)美味しい料理を絶対に作らないってスタンスを崩さずにい続けた人が確かにいた、と思い至っている。

 そして、もしかすると、僕自身も何かに対して頑な姿勢で憎悪と共に復讐を行っているかも知れない。
 ビートたけしが「30過ぎて親を許せないヤツはバカだ!」と発言してたらしいけど、30歳過ぎても尚、料理だったりお洒落だったり他の何かに対し復讐しているのは、「親を許せない」って言っている姿勢に近いのかも知れない。

 逆に言えば、20代までは復讐して良い。ただ、30歳過ぎたら自覚のある許せないこと憎悪、復讐に関しては向き合って許せるように試行錯誤していくべきなんじゃないか、と思う。

 9月某日

 今期のアニメが終わった。
 僕が今回追っていたのは、「小林さんちのメイドラゴンS」「僕のヒーローアカデミア 5期」「東京リベンジャーズ」「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…X」「平穏世代の韋駄天達」だった。
平穏世代の韋駄天達」はまだ十一話で、ワンクールで終わる感じはしないので、来期もやるんじゃないか、と期待している。

 なんとなく、語っておきたいのが「小林さんちのメイドラゴンS」と「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…X」だった。

 どちらも主人公は女の子で、描かれるのは(現実とファンタジーの違いはあれど)日常だった。
 そして、その日常の延命の為に「小林さんちのメイドラゴンS」のラストでは結婚をしようという提案がなされる。
 多分、提案した異世界のドラゴン・トールは、それがどういうものか正確には把握していない節があるけれど、小林さん(主人公)と結婚すれば、ずっと一緒にいられる(日常の延命)、という判断だったようだ。

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 逆に「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…X」はカタリナ(主人公}は婚約者のジオルドと結婚してしまったら王室に嫁ぐことになり、中身は単なるオタク女子高生のせいで、それに耐えられる気がしないと学校卒業後に就職という道を選び、(結婚はするけれど)日常の延命に成功する。

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 注意深く見れば(とくに「小林さんち~」)、大人になることを拒否している訳では決してないのだけれど、モラトリアムを延長させようという手触りはある。
 共通していることとしては子供で純粋でいることは良いこと、みたいな解釈できそうなところだった。

 アニメというコンテンツそのものが子供に向けたものなんだから、それで良いのでは?と思うけれど、大人になることから逃げている感じもあって、うーむとなってしまう。

 そんな僕の感慨と対照的なことをやっていたのが、「東京リベンジャーズ」だった。

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 過去に戻って現在の不幸を払拭しようとするタイムリープものなんだけれど、アニメのラストではあらゆる問題を解決し一件落着したな、と現在に戻ってきたら、以前よりも平和な現状になっていて安心していると、部下が目の前で殺され、最後には自分にも銃を向けられて物語は終わる。
 子供で無邪気で、真っ直ぐな気持ちだけ持ってたところで、邪悪なものには勝てないし、簡単に椅子に縛り付けられて銃を向けられてしまう。

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 今の世界は邪悪なものに溢れ返っているからこそ、アニメの中でくらいぬるま湯な日常に浸りたい、という気持ちは分かる。「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」とか最終話を見たあと寂しすぎて、一期から見直してしまった。
 けれど、邪悪なものは容赦してくれないので、大人になる現実みたいなものを描くアニメーションはもっとあって良いのにな、と思う。

 というか邪悪なものとか関係なく人間関係的にも大人にならざる負えない瞬間って結構ある。そういう時に子供で良いよね、って思っちゃうのはちょっとどうなんだろ?と最近は考えるようになった。

 9月某日

 雑談って結構大事だと思う。
 テレビで「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」をやっていたので見る。内容は置いておいて、テレビの放送だとCMが挟み込まれる。
 久しぶりにテレビで映画を見たせいかも知れないけれど、CMがあることが新鮮で結構必要なことだな、と感じた。

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 これって雑談に近いもので、どんなに大事でシリアスな話をしていても、それだけだと息が詰まるし、本当に大事な話や考えさせられる会話には一見無駄で削げ落として良いって思われるような雑談があるのと共通するのではないだろうか。

 あと、CMで少しうんざりするほど「鬼滅の刃」の商品やサービスの宣伝が繰り返されるのも良くて、映画はあくまで商品だって言う水が差される印象があった。
 CMのおかげで映画に集中して泣いたり、怒ったりはしづらい。
 なんとなく、それで良いじゃんと思う僕がいた。

 それと、テレビの録画したビデオとかを見直すと本編よりも、当時のCMの懐かしさに盛り上がれるって言うのはあるから、CMって結構大事って思う。
 僕のテレビに録画機能はないんだけど。

 9月某日

 最近、気づいたこと。
 秋篠宮ご夫妻の長女の眞子さまと小室圭さんの結婚に関するあれこれ。
 結婚って個人的なものではなく、社会的なものなんだって昔から聞かされてきた。誰からかも分からないけど、みんな言ってた。
 そんな押しつけにもやっとした気持ちを抱き続けてきた中での今回のあれこれ。それに対する以下の記事を読んで、更に色んなことを考えた。

 分かり易い言葉にはできないけど、「ロン毛での帰国」するだけで圧勝したって言われる世界観は最高。小説の中にあったら読んだ瞬間、テンションあがる。
 更に「もうこういう破壊力を持つ人しか、日本のプリンセスを自由にできないのかもしれない。」という一文。
 カッコイイしかない。

 最近、気づいたこと。
 友人がnoteをはじめた。
 前の職場の友人で、音楽やライブハウスに詳しかった。一度、なんか面白いことをしようぜ、と僕のnoteに過去のエピソードを文章にしてくれたことがあった。

 僕の記事の中では「キング」と紹介しているけれど、これは彼のあだ名で今回noteを始めた名前は「ぴっぽじゅにおーる」とのこと。
 由来は聞いていない(いや、一回すごく昔に聞いたかも)。

 彼の記事で個人的に僕は以下が好きだった。

 ぴっぽじゅにおーるの人柄を知っている身としては「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を体現したような奴って感じはある。
 とはいえ、ボーイズ・オン・ザ・ランはモテないサラリーマンの話で、ぴっぽじゅにおーると出会った頃、彼は彼女と同棲中だった。
 個人的に印象的だったのは、スマホケースが派手なハンバーガーの形で、「それ良いね」と職場のエレベーター前で声をかけたら「これ彼女から誕プレで貰ったんだよ」と言われた時の、リア充爆発しねぇかな感は今でも覚えている。

 非リアの僕からすると、ぴっぽじゅにおーるは敵感はあるんだけれど、音楽と共に生活してきた人間だから書ける文章を書くので、良ければ読んでみてください。



サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。