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日記 2021年11月 誰かに言ってあげたかった、そして誰かに言ってほしかった、「あなたは悪くない」。

11月某日

 浅井ラボがツイッターで以下のようなことを呟いていた。

「JOKER」売れないコメディアンのアーサーは心の病を抱えるが、子供たちに襲われ、市の社会保障は打ち切られ、母の妄想が伝染し、人から渡された銃で傲慢なエリートたちを殺す。アーサーはジョーカーとなっていく。京王線放火通り魔の言及によって見直す。
ダークナイト版ジョーカーは自分の裂けた口の原因をその場その場で違う説明して、嘘だと分かる。人間が必死になるが概念である大金を燃やす。理由を持たない純粋悪として描かれ、恐ろしい。が、よく考えるとそういう純粋悪のような人間はファンタジーである(おそらく成人するまでに死ぬか殺される)
対してJOKER版ジョーカーは、自身の夢とそれへの適性のなさ、本人と母の心の病、町の暴力と悪意、不幸な偶然が重なり、狂気が破裂して凶悪犯罪を起こす、というどこの国でもいる犯罪者のルートをたどっている。アーサー=ジョーカーは自分である、と思う人もいるだろう。
アーサー=ジョーカーはコメディアンだけど、笑いのセンスがないのが秀逸な設定であった。コメディアンのわりに、どうしても自分の状況を笑うことができず、人間社会を笑う方向に向かった。二回見たが、純粋悪というより、かわいそうな病人。そしていつどこにでも出てくる狂気と悪、という感想になる。

 京王線放火通り魔の事件は「2021年10月31日20時頃、東京都調布市を走行中の京王線上り特急列車内で、乗客の24歳の男が刃物で他の乗客を切りつけた上、液体を撒いて放火し18人が重軽傷を負った。男は殺人未遂容疑で警視庁に現行犯逮捕された」というもの。
 そして、その犯人が「有名映画の悪役“ジョーカー”の仮装をして犯行に及」んだ。

 この事件に関してコメントすることはないけど、「京都アニメーション放火殺人事件」からこっち、似たような事件が起きすぎているな、とは思う。
 仕事の関係で一度、ガソリンを持って放火しに行く、と脅されたことがある。いわゆる何も持たない無敵な人(と言えば良いのか分からないけど)にとって、自分の思い通りにさせる唯一の方法が無差別な殺人ないし、放火になってしまった気がする。
 そのきっかけとして、「京都アニメーション放火殺人事件」はあると言って良いのかは分からないけど、僕を脅した人の念頭にはあったような気がする。

 京王線放火通り魔の事件にも類する何かがある、と安易に言って良いのか分からない。
 ただ、映画の「JOKER」を僕はどうしても好きになれないのは、浅井ラボが書いている「純粋悪というより、かわいそうな病人。」に尽きる。
 ダークナイトで描かれた鮮やかな純粋悪ではなく、単なる「かわいそうな病人」の物語になってしまった「JOKER」は変に社会派っぽくもあり、言ってしまえばチープに思えた。

 11月某日

 千葉雅也がツイッターで以下のように呟いていた。

宮崎勤の事件も、少年Aの事件も、「意味」の問題だった。そこには個人がどういう物語を生きるかの問題があった。だが京王線の事件は、もっと身も蓋もなく社会問題の表現なのだろうと思った。もう個人が幻想をこじらせる余地もない社会の閉塞。

 昔、通っていたデッサン教室の先生が「意味」は「価値」と同じだ、という旨のことを言っていた。
 京王線刺傷事件には「意味」がなく、「価値」がないのかな?と考える。けれど、それが「身も蓋もなく社会問題の表現」なのだとすれば、確かに意味も価値とは違った価値観の問題になる。

 11月某日

 東浩紀がツイッターで以下のように呟いていた。

むかしは「この世界には不快な人もいる、けれど彼らとも共存していかねばならないんだ」と溜息混じりに教えるのが教育者の使命だったように思うが、いまは逆に「不快な人を見たら声を挙げよう、我慢せず排除しよう」と教えている人ばかりのように思う。でも、それじゃふつうに考えて社会滅びるぞ。

 なんとなく、排除される側の人間って、それを肌で感じていて、手負いの獣よろしく暴れまわって社会がより悪い方へ進んでいるような印象が僕にはある。

 けど、じゃあ不快な人が居ても我慢しようって言うのも違う気もするから、不快な人とどのように共存するか、を考えていくべきなんだろうな。
 それはむちゃくちゃ地味で難しいことだけれど、簡単なことでやった気になるよりは、マシだと思う。

 11月某日

 母親のLINEする用事があったので、そのついでに「お菓子マイスターとしてのお母さま! 友達とオススメお菓子大喜利をするので、最近推しているお菓子を教えてください」と送ってみた。
 すると、

今オススメは甘いんだけどちょっとほろ苦キットカットのオレンジ。
 裏のチョコかけが美味しいチョコかけ源氏パイ。
 もちもち感がいい新発売のチロルチョコの生もち。
 チョコかけラスクも美味しいよね♪
 ぴりっとした味わいのチップスターの明太子味

 と返ってきた。
 何が美味しいかを表現する部分が流石、我が母さま。
 予想を超えるガチな内容だったので、オススメされたお菓子は全部買って食べてみようと思う。

 11月某日

 ミランダ・ジュライの「いちばんここに似合う人」を手に取って読んでみた。話題になっていたし、翻訳が岸本佐知子なので間違いないだろうと思った。

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「いちばんここに似合う人」は短編集で、一編目の「共同パティオ」に以下のような一文があった。

彼の耳に口を近づけて、もう一度ささやいた。あなたは悪くない。もしかしたらそれは、わたしがずっと誰かに言ってあげたかった、そして誰かに言ってほしかった、たった一つの言葉なのかもしれなかった。

 そんな誰かに「あなたは悪くない」と言われたいと思う主人公の女の子は【ポジティブ】という雑誌を好んでいて、最後にその雑誌にポジティブになる為のアドバイスの言葉を送っているが採用されない、と言う。
 その採用されない(彼女いわく、でももうあと一歩という気がしている)アドバイスで、この一編は締め括られる。

 このアドバイスが素晴しい。
 おそらく、そのアドバイスだけを読んだら、なんてことないが「共同パティオ」のラストに配置されているからこそ、この絵空事みたいなアドバイスが光り輝いて、心を満たしてくれる。

 11月某日

トッケビ~君がくれた愛しい日々~」を見る。

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 仕事の帰り道でだけ見ているので、今はまだ5話に入ったところだ。
 韓国ドラマってこんなに潤沢な製作費を持ってドラマを作れるんだ、という変な感動を持ちつつ見ている。
 好きなキャラは死神サニー

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 がっつりとしたラブコメ作品で良いと思うのだけれど、火を吹き消すことでイケメンのおじさんを召喚できる女学生の話って考えると、よく出来ている。

 同時に犬夜叉の「おすわり」ってヒロインが言ったら、犬夜叉(半分妖怪の存在)が地面に激突する設定は秀逸だったんだな、と改めて考える。

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 本来、混じり合うはずのない男女が何かしらの主従関係(火を消すと召喚される、おすわりって言われたら地面に激突する)を背負わされる設定で、もう物語はできていて、面白いことも分かるって凄い。

 11月某日

 溝口彰子の「BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす」を読み始める。

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 本書でBL史を三期に分けて考えており、その始まりを「明治の文豪・森鴎外の娘である森茉莉(一九〇三‐一九八七)が一九六一年、五八歳の時に発表した短編小説『恋人たちの森』」としている。

『恋人たちの森』は、フランス貴族の父親と日本の外交官の娘を母親に持つ資産家で、東大で教鞭をとる作家である三〇代後半の「美丈夫」ギドウ(義童)と、私大の仏文科を一年で中退し菓子工場で働く美貌の若者パウロ(本名・神谷啓里)の悲劇的恋愛が耽美的に描かれた作品だ。

 BL進化論の中で細かく『恋人たちの森』が如何にBLなのかが語れて行くのだけれど、僕が面白いと思ったのは溝口彰子が引用している森茉莉のエッセイを踏まえた以下の内容だった。

「美男キャラクターは自分の代理人」とは森茉莉は書いていないが、「恍惚」「夢の花園にはいって」といった表現が示す彼女の深い快楽からは、夢の花園で男性カップルを眺めながら、彼らに同一化もしていることが察せられる。

 つまり、BLの快楽は自分のいない「花園で男性カップルを眺め」てから、「彼らに同一化もしている」という点で、この反復(もしくは、何層にも重ねられた視点)なのだろう。

 そう考えてみると、BLを読む時、僕は同性である為に「眺め」てから、「同一」するというプロセス以前に、自分に近い存在ということで反復なく同一化してしまう気がする。

 なんて、話を最近隣になった職場の同僚にする。
 同僚は一つ上の女性で、彼氏が化粧とかもする美意識高い方とのことだった。
「さとくらくんって普通の女の子よりもイケメン好きだよね」
 と言われる。

 ふむー。
 確かに女性に対して僕は無意識に顔をじろじろ見るのは失礼だと思って、あんまり見ないようにしているので、イケメンの方が安心して見れる部分はある。

 11月某日

 アメリカの世界幻想文学大賞・短編集部門松田青子の『おばちゃんたちのいるところ――Where The Wild Ladies Are』が受賞した。

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 日本で同賞を受賞しているのは、長編部門村上春樹の『海辺のカフカ』だった。

『海辺のカフカ』と(短編集と長編の違いはあれど)並ぶ作品ということで、丁度持っていたというのもあって『おばちゃんたちのいるところ――Where The Wild Ladies Are』を読む。

 バラバラなようで、繋がってもいる17の短編で成り立っている本書のあらすじは以下のように始まる。

 追いつめられた現代人のもとへ、おばちゃん(幽霊)たちが一肌脱ぎにやってくる。

 本編を読んでみると、おばちゃん(幽霊)がやってくる話は一つか二つくらいで、あとは幽霊や何かよく分からない存在の気配がありつつ女性たちの生き難さが描かれる。
 好きなのは「ひなちゃん」、「クズハの一生」、「楽しそう」など挙げると永遠書けてしまう。
 まとまった話はエッセイに書こうと思う。

 今回は「休戦日」の一文を引用したい。

 窓の外から、小学校の掃除の時間のアナウンスが聞こえる。音が割れた童謡が流れ出す。
 恋とか、恋愛とか、本当に意味がわからない。こんな不確かで、錯覚かもしれないもので人類の存続が長い間保たれてきたのだから、恐ろしいことだ。これまでが異常だったのだから、少子化なんて、もうしょうがないんじゃないかと思う。

 流れはあるのだけれど、ナチュラルに「小学校の掃除の時間のアナウンス」と「音が割れた童謡」が窓の外から聞こえてくる中で、「恋とか、恋愛とか、本当に意味がわからない。」と始まるのが、小説ならではの表現で好きだった。

 11月某日

 地下アイドルを好きになる人は、アイドルになる前の苦労話や目指すきっかけを知って、女の子に内包された物語を好きになって応援するんだ、という話を知る。

 なるほどなぁ。
 noteを始める前のカクヨムで書いていた頃の僕(郷倉四季名義)は語るべき物語を内包していて、それをエッセイだったり小説という形で語っていっていたような気がする。

 友達が自殺未遂した話や友達からの電話に出たら「友人が人を殺して警察に捕まった」と言われた話とか、そういう経験を語ることが物語になっていて、僕自身の創作意欲にもなっていた。
 実際、そういうものを読んでくださった方は、応援してくれていたような気もする。

 今は誰も応援されていない、と言うつもりはないのだけれど、ただカクヨムで熱心に自分の経験を語っていたような意欲は僕の中にはない。
 時々、郷倉四季の頃のように語れないことを申し訳なく感じる。

 けれど、それは子供が成長して以前着ていた服が小さくなって着れなくなるようなもので、望むと望まないに関わらず訪れるものだった。

 問題は、この物語化する為に特化したエッセイを今も書いている、ということだった。
 もう本当に誰も読んでいないエッセイなのだけれど、そして、以前のように書けもしないのに、僕は続けている。
 終わりを見失っているんだと思う。

 アイドルは一生、アイドルではいられない。
 終わりは必ず訪れる。
 僕も一生続ける訳にもいかないし、今の時点で無理が出てるのは明白でもある。

 物語化した僕を僕はどのように終わらせれば良いんだろう。
 最近はそんなことばかり考えている。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。