【小説】西日の中でワルツを踊れ⑬ 「お前は甘い。ただ弱く、愚かだ」と父は言った。
私は由香里さんに連絡を取って、会う約束を取り付けました。今から考えれば当時の私は愚かでした。
けれど、活気のある旅館を失くすことは母の死に近い苦しみがありました。
由香里さんに私は自分の力について誠実に話をしました。
そうすれば人は分かってくれる、と私はどこか盲目的に考えていたんです。
しかし、由香里さんは真剣に受け止めてはくれませんでした。
「誰か、亡くなった親しい人の名前を教えてくれませんか?」
と私は言いました。
死者に会わせれば彼女も信じてくれる、と思っての提案でした。
由香里さんは僅かな躊躇いの後、一人の男性の名前を口にしました。
その男性を見た時、私は言葉を失いました。
男性は旅館の部屋で死んでいた人だったんです。
そして、その男性は由香里さんに憑いていました。
どうして?
と思うよりも先に男性と目が合ってしまいました。
彼は私に向かって激しい罵倒を浴びせました。
その激しさによって私は思わず目を瞑ってしまいました。
私は不意のこととは言え、由香里さんと男性を会わせてしまったんです。
死者はもっとも弱い立場の他者です。
それ故、死者から生きている私たちに触れることはできません。しかし、会った以上、話をすることはできますし、姿を見ることになります。
由香里さんと、その男性の関係性を私は知りません。
ただ、男性は由香里さんを想っていたことは確かでした。
私はすぐに由香里さんと男性を引き離しました。
会っていた時間は精々五秒くらいのものだったと思います。
その五秒で、由香里さんは三年分くらいの年を取ったように思いました。何も言えず、私が男性を見ないよう視線を逸らしている間に、由香里さんが言いました。
「なんてことしてくれたのよ」
由香里さんは目を見開いて視線を彷徨わせた後に言い、私の前から離れていきました。
最後に見た彼女の背中には確かに、あの自殺した男性が憑いていました。
それが自分の力によって他人を不幸にした初めての経験でした。
同時に、初めて他人に故意に傷つけられる経験にもなりました。由香里さんは私のよくない噂を流しました。
いわく、井原紗雪は悪魔憑きだ、と。
彼女が旅館に居たせいで、身元不明の男性が自殺したのだ、と。
客観的に見れば、由香里さんは感心するほど鮮やかに全ての責任を私に押し付けていきました。
そうして私につけられた名前は、「屋根裏の悪魔憑き」でした。
どうして屋根裏かと言うと、鶴子さんが学生時代に持っていた本が屋根裏に片付けられていて、私は休日には必ずそこへ行って一日本を読んで過ごしたり、昼寝をしたりしていたんです。
キンモク荘は男性の死と、それを引き寄せた屋根裏の悪魔憑きの私によって、評判を落としていきました。
従業員の方々の私を見る目も変わっていました。
そんな中、唯一変わらず接してくれたのが鶴子さんでした。
しかし、鶴子さんが良くても周りは私を許してくれません。
キンモク荘は鶴子さんの亡くなったお父さんが始めた旅館でした。
そのお父さんは鶴子さんに憑いていました。
ふとした瞬間、死者である鶴子さんのお父さんは私の前に現れて、私を罵倒しました。
お前のせいで旅館は滅茶苦茶だ。
鶴子の邪魔をするな、出て行け、と。
私は鶴子さんのお父さんの言う通り、キンモク荘を出ていくべきなのだと思いました。
中学二年の冬の終わりのことでした。
私は父に連絡をしました。
事情を聞いた父は電話口で言いました。
『俺は澄子のお願いの通りに手配をした。もう、俺がどうこうする義理はない』
「母のお願い?」
今、考えれば、あの父が善意で私を鶴子さんのもとへ住めるよう手配する訳がありませんでした。
そこには母の心遣いがあったんです。
父は何でもないことのように言います。
『澄子のお願いは、紗雪が不自由なく暮らせる場所の提供、そして成人まで紗雪の力の利用の禁止、だ』
「私の力の利用の禁止?」
『そうだ。お前のような力は個人の手に負えるもんじゃないからな。俺のような社会的に地位があって、金のある人間が使ってこそ、ようやくバランスが取れるんだよ』
迷いはありませんでした。
「なら、今から私の力を使ってください。その代わり、一人で生活できる環境を保障してください」
電話向こうの父の表情を私は窺い知ることはできません。
しかし、今なら容易に想像できます。
彼は間違いなく嗤っていました。
父の仕事を手伝うという名目で私はキンモク荘を離れました。
最後まで鶴子さんは私を心配してくれましたが、憑いた彼女のお父さんは私に敵意を向けたままでした。
私はある地方都市で一人暮らしをはじめました。
中学校に通い、父の秘書に連れられて時折、名も知らぬ人物に会い、死者を見たり会ったり、会わせたりしました。
忙しい日々でしたが、余計なことは考えなくて良いので有難かったです。
そんな日々に亀裂が入ったのは八月、夏休みに入った時でした。父の秘書との会話で、腹違いの兄が父に会いに来ていたことを知ったんです。
兄の存在を知った私は、忙しい日常の中で彼に対する無条件な信頼を抱えるようになりました。
ただ血が繋がっていて、あの歪んだ父を持つ。
それだけのことで兄は私のことを理解してくれると思ったんです。
それは殆ど押し付けに近い感情です。
しかし、母を亡くし、鶴子さんから離れた私には、そのような相手が必要でした。
私は父の秘書から兄の名前と住所を聞くと彼に会いに行きました。兄は私よりも二歳年上で、当時の彼は高校二年生で、私が中学三年生。
時期は夏の終わり、丁度衣替えをした頃でした。
突然、訪ねてきた私を兄は邪険に扱うことなく、迎えてくれました。
兄は三日間、父と共に過ごしたそうでしたが、その経験はあまり良いものではなかったのは、すぐに分かりました。
私たちは兄妹だと言う自覚もなく、何度も会いました。
共通の厄介な父が居る、というのも大きな理由だったと思いますが、根も葉もない言い方をすればお互いに寂しかったのでしょう。
誰でも良いから自分の話を聞いてほしい、そして僅かでも同情してくれれば、それで私たちは満たされました。
父に兄は
「お前は甘い。ただ弱く、愚かだ」
と言われたそうです。
兄は優しく、脆い人でした。
父の言葉を真正面から受け止めて傷ついていました。
そんな兄を優しく包むように抱きしめて、私は耳元で彼を甘やかすようなことを言いました。
私も母の死やキンモク荘での話をしました。意図的に死者が見える話はしませんでした。
私はただ兄に優しく同情してもらえれば、それで良かったんです。
兄は私が思う以上に深く、私に同情し甘やかしてくれました。
しかし、そんな日々も長くは続きませんでした。
父が私と兄の前に現れたんです。
それは父の嫌がらせの類ではなく、純粋な私のミスでした。
兄の関係に拘泥するあまり、父からの仕事を疎かにしてしまっていたんです。
元幸ぃー、と父が兄を呼びました。
兄が視線を落として委縮するのが分かりました。
「お前、俺があてがった女は抱かねぇっつて、いい人ぶっておいて血の繋がった妹は抱くのかよ?」
あてがった?
私は話が見えず、父と兄を交互に見ました。
父は更に続けましす。
「いい人ってのは、どうでもいい人の意味で用いられるんだ。元幸、お前は甘く、弱く、愚かだ。そうすることで、いい人でいたいんだろ? 紗雪はそんなお前が、手ぇ出して良い女じゃねーぞ」
父は私の手を取って車に押し込みました。
兄は視線で私たちを追うことさえしてくれませんでした。
私は何度も兄の名前を呼びました。
ほんの一瞬でも視線が重なれば、私の想いは兄に届く。
真剣に、私はそう思っていました。
しかし、車が走り出すその瞬間まで、兄は石膏のように白い顔で、その場に立ち尽くすだけでした。
仕事を終えて、私はすぐに兄へ連絡を入れました。
父が軽蔑した眼差しを私に向けましたが、私はそれ以上の怒りの視線で応えました。それほど真っ直ぐに父と向かい合ったのは後にも先にも、その時だけでした。
兄は私からのメールにも電話にも、応えてくれませんでした。
私は兄の学校前で待ち伏せて彼と会い、話し合いの場を設けました。どういう形であれ、私は自分の口から父のこと、力のことを説明したかったんです。
あくまで父が認めているのは私ではなく、私の死者が見える力だ、と。
私は真剣に言葉を紡ぎました。
兄に分かって欲しい、その一点だけを願って口を動かしました。けれど、私が話をしている間、兄の表情は時間が止まってしまったかのように微動だにしませんでした。
兄はもう決めてしまっていたのです。
その決断を私ではどうすることもできないと、気づいてしまってからは言葉を続けられなくなってしまいました。
もどかしさと悲しさから私は兄の前で泣きました。
そうすれば以前のように兄が私に同情して、優しい言葉をかけてくれる。
心のどこかで私はそう期待していたのかも知れません。
しかし、
「何にしてもさ、アイツにとって貴女は、どうでもいい訳じゃないんだよ」
そう言うと兄は下を向いて嗚咽を漏らす私を置いて、その場を後にしました。
私と兄の関係は、そのようにして終わりました。
その後の兄の動向は父の秘書から聞きました。
高校を卒業したこと。進学せず仕事に就いたこと。
全て具体性のない曖昧な情報でしたが、私にとっては丁度良い距離感でした。
そして、つい二ヶ月ほど前に仕事を辞めたこと。
更に行方が分からなくなったことを二週間と少し前に知りました。私は父を頼り、西野ナツキさんが兄の行方を知っていると言われて、今ここにいます。
サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。