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日記 2021年8月 あらゆる利害を孕んだリアリズムの恋愛と「好きなものを肯定すること」しかできない恋愛。

さとくら

 8月某日

 このご時世、絶対にダメなのだけれど、8月の前半にお酒を飲む機会があって、アホみたいに酔って翌日に二日酔いで最悪な気持ちで目覚めた。
 村上春樹の短編「神の子どもたちはみな踊る」の冒頭は、「最悪の二日酔いの中で目を覚ま」すけれど、本当にそんな感じだった。

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 それでも翌日は仕事の時間にちゃんと出社した。
 普通に働けるかな、と思っていたが、途中で耐えられなくなった。ポカリスエストを飲むことすら、気持ち悪くなったので早退した。
 部屋に帰るまでもずっと気分は悪かった。

 これまで何度かお酒を控えようと思ってきた。
 けれど、一度も続かずここまで来てしまった。
 こんなご時世でも続かないのか、ということに興味があったので、しばらくお酒を飲まないようにしてみようと思う。

 流石にポカリスエストも飲めないくらいの二日酔い(今考えると熱中症?)になったのは普通に良くない。
 社会的にも肉体的にも、というのが本音だ。

 ちなみに、そんな「最悪の二日酔い」があった数日後に職場で、陽性者が出た。それも、僕らがオフィスを移動する前の階だった。
 会社から「飲み会はぜったに行なわない!!」「夜間のほか、休日は日中においても会食などを慎むようにお願い致します」というメールが届いた。

 僕自身がお酒を飲まないって決めたことや、会社からのメールを見て思うことは、金原ひとみの小説、「デクリネゾン」の以下のような一節だった。

 外食の際にお酒を飲む自由を奪われたことは、親だったり国家だったり何らかの巨大な権力によって永遠に一緒にいると誓い合った彼氏と別れさせられる理不尽とほとんど遜色なく、こんな自由の剥奪があっていいのか、これは個人の権利の侵害に他ならない、と息が止まりそうなほど憤慨した。

外食の際にお酒を飲む自由」とは、当然コロナのことで、「デクリネゾン」はほぼリアルタイムにコロナによる日常の変化が描かれている。
 あらゆる社会状況によって、「外食の際にお酒を飲む自由」は奪われてしまった訳だけれど、そういった理解とは別のところで、「永遠に一緒にいると誓い合った彼氏と別れさせられる理不尽」に感じてしまう人がいる、ということも理解しておきたい。

 8月某日

 お酒飲まない代わりにアイスコーヒーを飲むようになった。
 そのついでみたいに、ピアスもあけた。
 ピアッサーは以前買っていて、テレワーク中に眠くなったら使おうと思っていた。

 ピアスをあけた日、緊急事態宣言が延長された。
 ピアッサーを使った場合、ファーストピアス(スタンドというらしい)がはまった状態で、一ヶ月間を過ごす。
 毎日、お風呂に入った後などに消毒し、寝る時はとれないように絆創膏などを貼る、とピアッサーの説明書にはあった。

 素人の僕は説明書に従って生活をしている。
 それはコロナにおいても同様で、僕はコロナのある生活の未だ素人だ。
 外へ出る時はマスクをして、家に帰ってきたら手を洗う。
 食事は一人でとって、外食は控える。

 言われることに粛々と従いつつ、コロナ前の日常を決して忘れないでいようと思う。
 ピアスの穴のように、コロナが僕の中にぽっかりと穴をあけるとしても。

 8月某日

 最近の日記で、小説を書いているから日記やエッセイが書けないと散々、僕は言っている。
 我ながら、知らんがなと言う話だ。
 読んで下さる方からすると、そこは本当に関係がない。

 自分で読み直しても、そんなことを書いている日記はあまりよろしくない。改善するか、辞めるか、どちらかだなぁと思っていて、ふと小説を書くように日記を書いてみた。
 うん、悪くない気がする。
 ということで、今僕は小説脳で日記を書いている。

 以前と文体が異なってくるかも知れないが、ご容赦いただきたい。
 小説を書くように日記やエッセイが書けるのなら、日記やエッセイを書くように小説も書けるのだろうか。
 いつか試してみたい。

 8月某日

 金原ひとみの連載小説「デクリネゾン」の中で、こんな台詞がある。

「俺自身は、そういうシンプルな感情だけで突き進む恋愛よりも、例えば互いに浮気しながらも離婚せずにいるような、あらゆる利害を孕んだまま進行するリアリズムの恋愛の方に惹かれるけどね。志絵は利害を排したロマンティックラブに盲目的になってしまうから、長続きしない激しい恋愛を繰り返すことになる。いつか孤独なアル中になって自殺するんじゃないかって心配だよ」

 これは主人公、志絵の最初の夫の台詞だった。志絵は小説家で中学生になる娘がいて、二回の離婚を経験し、現在は大学生の男の子、蒼葉と付き合っている。
 蒼葉は「好きなものを肯定することでしか、彼は好きな気持ちを処せない」男の子で、考えも行動も若い。

 若さはそれだけで価値がある、という考えに僕は懐疑的でいる。少なくとも若い人間は経験も知識も足りない。
 冷静に物事を判断できる訳でもない。
 見えるものが全てだし、多くを間違える。
 間違えて良い、という点で若さは素晴しいと言えるかも知れないけれど、間違いは間違いで、一線を越えれば若さなんて関係なく裁かれる。

 なんて、若さに対して否定的な僕(多分、それは過去の僕を思い出すから)だけれど、「デクリネゾン」の志絵は蒼葉の弱さは未熟さを理解しながら、彼を一人の人間として尊重しようとする。
 その成熟した姿勢に僕は強い憧れを持つ。
 志絵は社会的な模範になる大人ではないが、一人の人間として人生を生きる大人という点では、非常に優れている。
 正直、僕は志絵になりたいとすら思っている。

 という話も置いておいて、最初の引用文に戻りたい。
例えば互いに浮気しながらも離婚せずにいるような、あらゆる利害を孕んだまま進行するリアリズムの恋愛」に惹かれると、志絵の最初の旦那は言う。
 なんと言うか、リアリズムというものを少し都合よく使っている節がある気もするけれど、それを「恋愛」だと言われると、そうかぁと唸ってしまう。

 引用した志絵の最初の旦那の台詞は「デクリネゾン」は一話のもので、読んだのも八月の頭くらいだったと思う。それからずっと引っかかっている。
 そんな中で、芦原妃名子の「Bread & Butter」を読むと、以下のような台詞にぶつかった。

「楽しくて 優しくて 笑顔しかない
 そんな場所は 仮の住処(すみか)だよ
 優しいだけの関係が あっさり ちょっとしたハズミで 終わっちゃうのと 同じだよ」

 この台詞を前にして、主人公の女の子は“優しいだけじゃない関係”を婚約者と築こうと焦ってしまう。
 そういう気持ちの動きを「みっともない」とさえ彼女は言う。

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 けれど、「デクリネゾン」の(ちょっとネタバレだけど)「好きなものを肯定すること」しかできない蒼葉と志絵は、良好な関係を築いて結婚までする。
「デクリネゾン」は現在も連載中だから、最終的にどうなるのか分からないけれど、「楽しくて 優しくて 笑顔しかない」仮の住処に安住してしまう人生があっても良い。

 少なくとも、「互いに浮気しながらも離婚せずにいるような」関係性をリアリズムの恋愛と言ってしまうよりは、まだ良い。
 なんて書いて、僕は僕が見たくないものから目を逸らしているんだろうとも思う。つまり、僕は「互いに浮気しながらも離婚」しない夫婦を上手く認められていない。

 なので、沢木文の「不倫女子のリアル」という本を買った。
 帯の中には「不倫したら家族がうまくいった!?」という文字も踊る。そりゃあ、そういうパターンもあるか。

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 安易に若さを否定的に考えてしまう僕は十分に成熟していないのだと思う。不倫を肯定するとかではなく、「互いに浮気しながらも離婚せずにいるような」関係性にも、必然性みたいなものを見出せる目は持ちたい。

 8月某日

 最近、気づいたこと。
ザ・ハント」という映画を見る。

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 爽快! 最高! って言いながら見た。
 内容としては、「富裕層が娯楽として行う「人間狩り」を題材に」されていて、標的とされた男女12は薬で眠らされて、目覚めると森の中だった、という感じで始まる。
 武器とブタ(!?)が入った箱を空けると、襲撃される。銃を向けられたら、銃を使って防衛しても良い、みたいな憲法?がある、と作中人物が言っているから、武器を持てば正当防衛?か何かが成立するっていう理屈なのだろう。
 まぁ何にしても、「ザ・ハント」の主人公が、え、お前がハントする側になんの?感は最高としか言いようがないし、作中で語られる「ウサギとカメ」の話は残酷だけれど、その通りとしか言いようがなかった。

 最近、気づいたこと。
竜とそばかすの姫」を見る。

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 細田守の最新作で好評だと言うことで、「おおかみこどもの雨と雪」を劇場で三回見に行った人間としては、見るしかないだろという気持ちで映画館に行く。
 うん、集大成感はあるし、「そばかすの姫」が歌うシーンは最高だけれど、物語としては、うーんだった。
 細田守の描く女の子の成長って自立するって言うよりは、母性を持って弱きを守る、みたいな方向へ行っている感じがあって、そこまで立派に何でもかんでも背負おうとしなくて良いのでは? と思ってしまった。
 いや、もちろん、その背負うシーンが感動的なのは分かるんだけれども。
 どうしても、一人の女の子の為に世界が作られている、という嘘っぽさに乗ることができなかった。
 前提でつまずいてしまった感じがあって、やっぱり「おおかみこどもの雨と雪」の方が好きかな、という結論だった。

 8月某日

「性愛小説」と検索すると、「性愛文学」なる結果が引っかかった。
 へぇ、そんなジャンルあるんだ、とウィキペディアのページを開いてみると以下のような内容だった。

「エロティカ(性愛作品、Erotica)の一部。さまざまな古来、どこの文化にもある性的な表現、造形の文学的な形態と見られる。文学の一ジャンルではあるが、性行為を直接描写する官能小説と重複する部分もあり、あまり日の当たることはない。

 ふむ。
あまり日の当たることはない」性愛文学の作品一覧も載っていて、そこにポーリーヌ・レアージュの「O嬢の物語」があった。
 読んだことがあるのはそれくらいで、あとは未読だった。日本の作家の名前もあって知っているのは、谷崎潤一郎団鬼六渡辺淳一だったが、ページに載っている作品は読んだことがなかった。

 ただ、谷崎潤一郎が入るなら、吉行淳之介辺りも入るのでは?と、ふと思う。
 おそらく、「性愛文学」なるジャンルそのものが成立しきっていなくて、明確な基準も設けられていないのだろう。

 現在で言えば、「女による女のためのR-18文学賞」界隈の作家は入ってくるだろうし、村山由佳島本理生なんかも入れるべきだと思う。

 それに関連した内容として思い浮かぶのは、彩瀬まるが高校生直木賞を受賞し、講演会を行った際の、高校生からの質問だった。

 愛という概念と、人が持っている性欲というものは、同一視してもいいのか、もしくは、本来、相反するものなのか。愛と性欲ってどういう関係性にあるのかいつも疑問に思うのですが、彩瀬さんはどう思いますか。

 この質問をした高校生って普通に凄いと思う。
 高校生だった頃の僕は、愛と性欲についてこんなにも明確な言葉で他人に問いを投げることは絶対にできなかった。

 彩瀬まるの回答は以下のようなものだった。

 愛と性欲は相反するものだとは、私は思っていません。逆に、性欲があるから愛があるというわけではないし、性欲がないから愛がないというわけでもないと考えています。こういうふうに、性欲が愛を傷つけるかもしれないという疑義が生まれている時点で、今この社会で扱われている性欲の描かれ方が、よいものではないのかもしれませんね。そういう欲望があることが、双方の喜びに繋がるような物語が生まれてほしいし、そういうものを作れるように努めていきたいなと思っています。これは、これから大きな課題になっていくことだと思うので、ぜひ一緒に考えてくださったら嬉しいです。

 この回答は、あらゆる点で完璧だと思う。
 もし仮に現代の「性愛文学」なるものを確立させるとするならば、その中心的なテーマとなるのは「性欲が愛を傷つけるかもしれない」こと、「そういう欲望があることが、双方の喜びに繋がるような物語」が描けるのか、という点になるのだろう、と思う。

 ちなみに、官能小説の幾つかも最近読んでいるのだけれど、エロティックというよりは、なんか痛そう(SM小説だったので)とか、ご都合主義がすぎる(男の妄想系だねとか)って感じで、面白いとなかなか思えずにいる。
 エロって難しい。

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