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こうして記憶を辿りながら文章を書いている「ノルウェイの森」のワタナベトオルを信じる。

 イヤホンが壊れた。
 正確には片方から音が聞こえなくなってしまった。その状態でも問題ないかと試してみたが、いつもと音の響きが違って気持ち悪く、つけていられなかった。
 壊れたのに気づいたのは休日の昼過で、買い物のついでに近くの家電量販店へ行こうと思った。

 普段、外へ出る時はイヤホンで耳を塞ぐので、何も耳につけずに部屋を出ることに少し臆する気持ちが湧いた。
 僕がイヤホンをつけて歩くのが当たり前になったのは、中学三年の時に習い出したデッサン教室の帰り道が心細かったからだった。
 そして、高校一年生の時にTHE BACK HORNの「ヘッドフォンチルドレン」という曲に出会って、僕は自分をヘッドフォンチルドレンなのだろう、と思った。
 歌詞に

 “ヘッドフォンチルドレン”俺達の日々は
 きっと車に轢かれるまで続いてゆく

 とあって、僕の最後は車に轢かれるなんだ、と変な納得をしていた。実際、容赦なく車が走る道路の横の歩道をイヤホンして、のこのこ歩いているのだから、車が突然、突き進んできても僕は気づけない。

 今もそれはそうだけど、流石に僕はチルドレンという年齢ではなくなってしまった。
不意に人にぶつかって 不意に音楽が途切れて 自分が自分じゃなくなる気がして車道にうずくまる
 という歌詞が「ヘッドフォンチルドレン」にはあるけれど、当時も「車道にうずくまる」ほどに音楽に自分を預けてもいない。

 だいたいヘッドフォンをつけて歩いたりもしていなかったから、僕はせいぜいが「イヤホン」チルドレンで、車に轢かれることもなければ、人にぶつかって音楽が途切れても、そこまで戸惑わない。
 ただ、心細くはなる。それは大人になっても変わらないんだと、改めて思う。

 大人になった今、僕は音楽以外にもイヤホンでラジオや好きな評論家のトークショーを聴きながら街中を歩く。僕にとって歩く行為は考える所作の一つで、「ヘッドフォンチルドレン」のように自分を保つための行動ではない。

 では、僕は何で自分を保ってきたかと言えば、それは小説であり、物語ということになる気がする。僕はどうして自分を小説や物語に預けてきたのだろうか。
 それは一言で結論付けるのなら、小説や物語は現実ではないから、だった。

 これに関して、少々遠回しな説明を試みたい。
 お付き合い頂ければ幸いだ。

 まず、丸谷才一という作家が明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであった、と書いている。
 明治維新以後の日本の文明は西洋化されていく中で、「伝統的な日本語と欧文脈との」折り合いをつける技術が求められ、それを最も上手にやったのが小説家だったらしい、と丸谷才一は書いている。

 宗教家でも政治家でもなかった。学者でも批評家でもなかった。歴史家でも詩人でもなかった。小説家がいちばんの名文家なのである。当然のことだ。われわれの文体、つまり口語体なるものを創造したのは小説家だったし、それを育てあげたのもまた小説家なのだから。

 その証拠として、丸谷才一は以下のように続けている。「小説家の文体を借りて政治家は演説したり手紙を書いたりし、新聞記者は記事を書き、宗教家は聖書を訳すのである。医学も裁判も、この文体がなければ成立しないだろう。

 ちなみに口語体とは字の如くではあるけれど、調べると以下のようにでてきた。

 1 ある時代の、話し言葉の形式。話し言葉体。

 2 現代の、話し言葉に基づく文章の形式。口語文の文体。常体(「だ体」「である体」など)と敬体(「です・ます体」「でございます体」「であります体」など)とがある。

 まとめると、口語体を作り出したのが明治維新以後の小説家たちだった。そして、その成立には伝統的な日本語と欧文脈(英文法)との折り合いを如何につけるか、という点にあった。

 ここまでは現実に即した口語体に関することだった。
 けれど、口語体とは「話し言葉」である以上、おとぎ話のような口承文学、フィクションを語るのに適した形式であるはずだった。
 さきほど引用した丸谷才一が、とある新人賞の選評で以下のように記載している。

 昔ふうのリアリズム小説から向け出そうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとえ外国のお手本があるとはいえ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでしょう。

 ちなみにこちらの選評は村上春樹の「風の歌を聴け」に対するもの。
 日本の小説がリアリズム小説から抜け出せなかったのは、明治維新以後の小説家たちが成立させた文体が浸透していたから、と考えられる。

 あるいは、もっと別の可能性を提示することもできるけれど、今回は割愛して重要視したいのは、村上春樹の小説は一人称で、いわゆる口語体の小説で、それは「自在にそして巧妙にリアリズムから離れた」ものだったこと。
 つまり、村上春樹はリアリズムから離れた、現実的ではないことを評価されてデビューした小説家だった。

 そして、僕が「ヘッドフォンチルドレン」を聞いていた頃に自分を保つために必要だったのは、現実ではない小説や物語だった。

 僕が最初に村上春樹を知った作品は「ノルウェイの森」だった。
「ノルウェイの森」は村上春樹の中でもっとも現実的な小説だとされているが、それでも読んでいる時、僕は現実ではない場所へと連れて行かれた。
 それこそ、「自分が深い森の中で迷って」「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けにきてくれな」いような場所。そして、重要なのは、そんな「深い森」が現実ではなくて、小説の中にしかないことだった。

「ノルウェイの森」がそのように現実から離れた物語に感じられる原因の一つに、語りがある。
 この小説は三十七歳になったワタナベトオル(主人公)が過去の体験を書いたものとして語られる構造になっている。
 本文にも「こうして記憶を辿りながら文章を書いている」とあり、「ノルウェイの森」という物語はつまるところ、ワタナベトオルの記憶や感情を読み解くものだった。

 昔、読んだ女流作家たちの鼎談で「ノルウェイの森」のワタナベトオルこそ精神を病んでいるから、病院へ行くべきだ、と言っている方がいた。
 その批判が正しいのか首を傾げるけれど、多くの「ノルウェイの森」を嫌い人達の気持ちが分からない訳ではない。

 ワタナベトオルの記憶を辿って書かれた文章は本当に全て真実なのか? 彼の語りをどこまで信じられるのか?
 村上春樹が書く登場人物は「信用できない語り手」なのではないか?

 そのような曖昧さが村上春樹の小説を読み時には常に付きまとう。白か黒かと分断を迫ったとしても、村上春樹は巧妙にそれを避けてしまう。

 僕はそのような村上春樹の曖昧さに強く惹かれた。繰り返すが、「ヘッドフォンチルドレン」を聞いていた頃の僕に必要なものは、現実ではない小説や物語だった。

 現実ではない小説や物語を、だからこそ現実と同じ、あるいはもっと深刻に考え込むことができる。それが「ノルウェイの森」のひいては、村上春樹の魅力だと僕は思っている。

 ひとまず、イヤホンは買って今も外へ出かける時は、イヤホンで耳を塞いで歩いている。

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