【小説】あの海に落ちた月に触れる⑤「歌って暴力と愛を合わせ持っている」

前回

 視界の隅に何か動くものがあって、目を凝らすとそれが朝子だと直ぐに分かった。

 黄色いパジャマにグレーのカーデガンを羽織った朝子は足音も立てず、病院から離れていく。黄色いパジャマが夜道の中で目立っているはずなのに、彼女の横顔や、歩き方にはどこか存在感がなく、幽霊のようだと僕は思った。
 自転車は自動販売機の横に止めたままにして、お菓子などの入ったコンビニ袋を持って、朝子の後を追った。
 朝子の足取りに迷いはなかった。

 僕は朝子から四十歩ほどの間を空けて、煙草を吸いながらついて行った。
 灰皿はさきほど飲んだコーヒーの缶で代用した。
 三本の煙草を吸ったところで、上り坂に差し掛かった。
 山だ。
 何の特別なものはなく、これを越えると隣町へ行ける。それだけの山だった。
 父や母と隣町に用事がある場合、車に乗せてもらって通ったことはあるが、徒歩で登るのは初めてだった。
 右手側が木々で、左手側が道路だった。
 めったに人が通らない道の外灯の間隔は遠く、僕はろくに足もとが見えない道を進むことになった。時々車が左横を通り過ぎていく。
 その時にだけ激しい光に僕はさらされた。

 コンビニで買った商品の入ったビニール袋がやけに重く感じた。途中で二度、持ち手を変えた。新品で買った煙草の数が半分まで減っていた。
 ずいぶん歩いた気がした。
 日中よりも真夜中を歩く方が疲れるのは不思議だったが、実際に疲れているのだから仕方がなかった。
 朝子の姿が外灯の下に映った。病人であるのを疑うほど、足取りに変化はなく速度も落ちていなかった。
 山の中腹まで来ただろう、というとこで朝子が立ち止まり右側の木々の隙間に消えた。

 え?
 僕は足を速め、朝子が消えた木々の隙間に近づいた。そこには石の階段があった。
 耳を澄ませる。
 小さいが確かな足音が聞こえる。朝子はここを登っている。
 見る限り外灯などはない。朝子は木々に覆われ、完璧と言って良い暗闇に包まれて、この石の階段を登っている。

 ビニール袋を持ち直し、僕は完璧な暗闇の中、石の階段を登った。
 石段は一段一段、形が違った。気を抜くとバランスを崩すような気がして、慎重に足を動かした。
 さきほどまでは多少なり外灯があった。
 隣を走る車の激しい光もあった。しかし、ここには何もない。
 ほとんど完璧な暗闇の中、固い石の感触だけが頼りだった。一度、立ち止まって耳を澄ませるが、もう朝子の足音も聞こえなかった。

 僕はなにをしているのだろう?

 そんな気持ちになった。
 もう良いじゃないか。陽子には途中で見失ったと言おう。別に責められたりはしない。だって、僕はちゃんと途中までは朝子を追いかけていたのだから。
 帰ろう、と思ったのに足は動かなかった。

 ――なんかね、よく分からなくなっちゃったんだ。いろんなことが。

 そう言った秋穂のことが浮かんだ。
 彼女は部屋に一人閉じこもって、はじめてしまったゲームを終わらせようとしている。
 僕もよく分からなくなったよ。
 どうして、こんな所にいるんだろう? 何の意味があるとも思えない。だけど今、帰る訳にはいかないんだ。なんとなく、それだけは分かる。

 秋穂がテレビ画面に食いついてゲームをしているように。
 何の意味がなくとも僕は朝子を追う。
 理由はいらない。

 ただそうしなくちゃいけないのだ。ここまで来てしまったからには。
 再び、足を上へ動かした。一歩一歩、僕は登っていく。誰かに言われたからではなく、自分の意思で僕はこの真っ暗闇の階段にいる。
 階段を登りきったのだと分かったのは、僅かな光が僕の目の奥を刺激したからだった。

「いらっしゃい」
 女の子の声がした。

 僕はしばらく何も言えず突っ立ていた。
 視界が定まらなかった。突然の光のせいかも知れない。一度、目を閉じる。
 そして、息を吐いて吸った。目を開ける。さきほどよりもマシだった。首を動かし女の子を捜して、へらへらと笑った。

「おじゃまします」
「なにそれ?」朝子が笑った。

 ほのかな光の中では、朝子の表情の細部まで確認することはできなかった。その代わりに声の響きは日の下よりも鮮明に伝わってきた。
 僕は朝子の後ろにあるものを見とめ、なるほどと思った。
 ここは小さな墓地だった。普段、僕がお参りするような大きさの墓が四つ、それから一回り小さな墓が更に四つ一列に並んでいた。
 そして、お墓の真正面は木々などがなく開けていて、そこから町を見下ろせた。

 細々とした光が点々とあり、ちょっとした夜景とも受け取れたが、場所が墓場である為にロマンティックな感じは受けなかった。

 ○

「それで、あなたは誰? もし私に乱暴するつもりだったら、やめといた方が良いよ」

 先ほどと変わらない軽い感じだったけれど、そこには確かな警戒心が含まれていた。
「そんなつもりはなかったけど。もし、そーするつもりだった場合、どうするの?」
「携帯でアナタの写真を撮って、ここから飛び降りて死ぬ」
「は?」
「この下は農家の方が管理している畑になっていて、朝には私の死体を見つけてくれるから」

 乱暴されるくらいなら死んでやる、朝子は本気でそう言っているようだった。言葉を選ぶべき場面なのだろうけれど、僕はそのまま疑問を口にした。

「畑なら、落ちても死なないんじゃない?」
「死ななかったら、そのまま山を下りて助けを呼びにいく」
「なるほど」
 じっと朝子は僕を見定めるようにして、様子を窺っている。僕はコンビニ袋からオレンジジュースとカルピスを取り出した。

「はじめまして、矢山行人って言います。朝子さんに乱暴を加えるつもりはありません。お近づきのしるしとして、ジュースはいかがでしょう?」
 朝子はあっさりと、体から力を抜いた。
「まぁどっちにしても、ここまで来られたらどうしようもないしね」

 言って僕が差し出したオレンジジュースを手に取った。
 信じられてないなぁ、
 と思いつつ僕は残ったカルピスのキャップを開けて飲んだ。

「それで、矢山さん」
「あ、朝子ちゃん。矢山って名字があまり好きじゃないんだよね。なんで、行人って呼ばない?」
 自分で言っていて、朝子さんよりも、朝子ちゃんの方がしっくりきた。

「んー、呼び捨ては嫌なので、行人さんで」
「ありがと」
「それで、行人さんは、お姉ちゃんの友達? それとも彼氏?」

 答えは控えて、墓を囲むブロック塀に腰をおろしてコンソメ味のポテトチップスとチョコレートのクッキーを開けた。
 どうぞ、と勧めてから「どうしてお姉ちゃんだと思うの?」と言った。

 朝子はお菓子の袋がひろげられたブロック塀の横に座って、チョコレートのクッキーを手に取った。
「お母さんやお父さんだったら、私の後を追うなんて方法は取らないし、友達だったらまず他人に頼る必要がない。消去法でお姉ちゃんってだけだよ」
「なるほど。どうしてお姉ちゃんは僕を巻き込んだんだろ?」

 それは僕の最初の疑問だった。
 なんとなく朝子なら答えてくれるかな、と思った。

「お姉ちゃんは私が絡むと他人に頼るしかないんだよ」
「どうして?」
 朝子はチョコレートのクッキーを食べてから
「秘密」
 と言って、ポテトチップスに手を伸ばした。

「それで、行人さんはお姉ちゃんとはどんな関係なんですか?」
「クラスメイト」
「友達ですらないの?」
 友達? よく分からなかった。

「ただのクラスメイトが、どうしてお姉ちゃんの、こんな無茶なお願いを聞いてるの? お姉ちゃんのこと好きなの?」
「セックスしたら、好きになるかも」
「最低」

 朝子が皮肉気に笑った。
 暗がりでも分かるくらい、その表情は陽子と似ていた。

「いや、冗談だよ、冗談」
 言って、何となく空を見た。月はなく、所々に小さな星が光っていた。「人を好きになるって、どういう感じなんだろうなぁ」

「なにそれ? 在り来たり、平凡な質問を私にしないでくれる?」
「すみません」
 ペットボトルに口をつけ、話題を変える。「で、朝子ちゃんはここで何をしてるの?」
「また、在り来たり」
 呆れたように言いながら、町に指を差した。「夜景を見てるの」
「金曜日の深夜だけ?」
「そうだよ」朝子はポテトチップスを食べ、指についた油っ気を舐める。

「なんで?」
「金曜日にしか見えないものがあるんだよ」
 僕は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「決戦は金曜日」

 ○

「そう、まさにそれ。って、なんだっけ? そのフレーズ」
「ドリカムの曲」
「未来予想図の人だぁ!」
「良い曲だよな」
「だね」
 朝子の表情が変化した。

 けれど、そこからどのような感情を窺えばいいのか、僕には分からなかった。
「ねぇ、行人くんは、未来予想図ってある?」
 僕を呼ぶ人称がさんからくんに変わった。

 共通の話題は偉大だな、と思いつつ笑った。「そうだなぁ」
 未来予想図か……。

 僕の頭に浮かんだのは自分のことではなく、兄のことだった。
 矢山という家系の長男は代々短命で、三十まで生きられない代わりに、何かしら特質した才能を持って生まれた。
 そんな漫画みたいな言い伝えを父も母も信じ、兄を甘やかして育ててきた。
 兄がどんなに無茶な要求をしようとも、この子は長く生きられないのだから、と両親はそれを叶えようとしたし、その為に僕は何度も蔑ろにされてきた。
 だからと言って、僕は兄が嫌いで矢山が憎いという訳ではなかった。
 それが本当なのか嘘なのか分からないし、両親が兄を甘やかしたいのなら、そうすれば良かった。多少の無茶な要求も僕ができることなら、しても良い。

 少なくとも今は一緒に暮らしている家族なのだから、出来る協力はしよう。
 そういう気持ちを親戚の家に預けられた二年の時間で僕は得た。
 だから、僕が唾を吐き捨て嫌悪するのは、本当なのか嘘なのか分からないものを信じ込ませた、矢山という家系に漂う空気そのものだった。
 本当に矢山の長男が短命であり、特質した才能を持ったからと言って、それが未来永劫、この現代の長男まで脈々と続くと思っていたのか。思っていたとするなら、その根拠はどこにあったのか。

 本当に兄に何かしらの才能の開花が見られ、世間に認められたとする。
 僕はその才能以上の結果を目指しはじめる予感があった。僕の未来予想図は才能に勝るだけの努力を積み重ねる自分の姿だった。
 それは矢山の血の連鎖など馬鹿馬鹿しいと嘲笑する僕の気持ちとは矛盾する予想図だった。僕はどこかで兄には特質した才能があり、血の連鎖はこの現代においても続くものだと信じていた。
 そして、その連鎖を僕は兄が発揮した才能の結果を超えることで、断ち切ってしまいたいと望んでいた。

 そうしなければ兄がいる以上、僕は誰かと結婚し子供を作ることに躊躇するだろう。それは生涯童貞であるよりも、憎たらしかった。

「僕の未来予想図は、好きな女を毎晩抱いて眠る、かな」
 その為に兄が開花させる才能を上回る必要がある。
「うわぁ」
「おい、なんだ、うわぁって」
 朝子が呆れたような声で言った。

「ねぇ、さっきからキモいこと言いすぎなので、帰ってくれません?」
「お前、僕が買ったポテトチップス一人で食べながら、よくそんなこと言うな、おい」
「行人くんが勝手に食べて良いって言ったんでしょ!」
「そーだけど。感謝とか敬いとかの感情を向けて頂きたい!」
「へぇ。私の秘密基地に来て、そんなこと言う? ジュースとお菓子だけじゃ、足りないくらいだよ」
「ここは朝子ちゃんだけの場所じゃないだろ?」
「でも、私の後を勝手についてきて立ち入ったんだから、私に権利があると思うよ」

 どうだろう?
 朝子の言い分には無理があると思ったが、ずっと言い合っていても仕方がないので話を進める。
「で、朝子ちゃんの未来予想図は?」

「私の未来予想図は、」
 その瞬間、耳障りな爆音が町の方から響いた。
 なんだ、と思い町に視線を向けると、点々と光る信号機や外灯の並ぶ道路を物凄いスピードで走り抜ける車の姿が確認できた。角を曲がり姿を消したと思ったら、他の角から飛び出してくる。のたうつよう動きで町の中を車は走り回る。

「すごい」思わず僕はそうこぼした。
「でしょ!」
 朝子が暗がりでも分かるほど、嬉しげな顔をしていた。
 白い歯が町から届く光の中で、僅かに浮き上がっているのが分かった。

「あの車はね、MR2って言うの」
 へぇ、
 と僕は相槌を打つ。
 遠くて車種まで確認できなかった。

 爆音は続く。
 車の動きは無造作だが確かな法則があり、光の動きを目で追っていると町を蛇が這うようにも見えてきた。それと同時に、爆音のリズムが耳につきはじめた。
 運転手がどんな人か僕には分からない。
 けれど、僕はその人がどうして車を運転しているのか、どうして朝子がこの車を見る為にわざわざ山を登っているのか、分かるような気がした。
 MR2の刻む激しいリズムの中には、理不尽に対する確かな憤りが含まれていた。

「歌っているみたい、でしょ?」
「歌?」

 朝子は僕を見ることなく言った。「歌って暴力と愛を合わせ持っていると思うの。心地の良い歌って、包まれるような幸せを感じるけど、耳障りな歌は体を押さえつけられるような不快さがあるの。車のエンジン音は世間で騒音だってなっているし、私もそう思うんだよ。でも、中には心地の良い音もあるんだって思うんだ」

「それが、朝子ちゃんが病院を抜け出す理由?」
 MR2の音が徐々に遠のいて行くのが分かった。余韻とも言える音の響きの中で、朝子が僕を見た。

「お姉ちゃんから理由、聞いてないの?」
「一応、聞いてるよ」
「じゃあ、それだよ」

 音が完全に止んだ。
 突然、僕らは今、墓場にいるのだという実感が訪れる。

 つづく

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