【小説】あの海に落ちた月に触れる⑥「曖昧な言葉が許されない世界で器用に生きる僕と不器用に生きる君」
「ねぇ、行人くんはセックスしたことある?」
「なんで?」
「さっき、お姉ちゃんとセックスしたら好きになるって言ってたから」
「あぁ、したことないよ」
「したことないのに、したら好きになるの?」
「多分ね」
「なんで?」
「セックスってさ、肯定の証だと思うんだよ」
「行人くんはお姉ちゃんに肯定されたいの?」
「多分、陽子じゃなくても良いんだけど」
「じゃあ、私でも?」
僕はなんと答えるべきか考え、結局は素直に伝えた。
「うん」
「誰かに肯定してもらって、行人くんはどうしたいの?」
どうしたい?
僕はどうしたいのだろう。誰かに肯定してもらえれば安心できる。
今までの僕の生活は間違っていなかった、と。
そう言ってもらえれば僕は……。
「分からない」
嘘だった。
けれど、素直な気持ちだった。
「ねぇ、私とセックスしてみる?」
あっけからんと言われると、何でもないことのように思えた。
「良いね。でも、朝子ちゃん。病気は大丈夫なの?」
「わかんないけど、大丈夫」
「そっか。なら」
と僕は座っている朝子の後ろにまわって、抱きしめた。柔らかな感触と共に、かすかな汗と女の子の香りがした。
「なに?」
「ん? 抱きしめてんだけど」
「セックスは?」
「ここじゃ、できないよ。僕、童貞だし」
「童貞、関係ある?」
「あるある、超ある」
「どこならできるの?」
「ベッド」
「今度、病室のベッドでする?」
「同室の子、いないの?」
「いないよ」
「なら、良いかもね」
何もよくないけど、僕はそう言った。
「しようね」
朝子は変わらぬ口調で言った。
「うん」
それから僕らは手を繋いで、真っ暗闇の階段を下りた。
朝子が前で僕が後ろだった。手を軽く引かれる度に僕は子供扱いされているような気分になったが、不快ではなかった。むしろずっとこうして進みたかった。
病院の前に歩きつくまで、僕らはほとんど会話を交わさなかった。
手を離した時、朝子が僕を見て言った。
「ねぇキスして」
「良いよ」
朝子と僕は唇が触れるだけのキスをした。
当たり前だけれど、朝子から煙草の味はしなかった。
○
僕は陽子に朝子のことを報告しなかった。
何をどう言えば良いのか分からなかった。
陽子から催促の連絡はなかった。
朝子と会ったのは金曜日の夜だった。今日と明日は学校もなく休みだ。
その間で僕は自分の感情を整理しようと思った。
家で昼食をとった後に家を出た。
自販機で煙草を買ったが、ライターを持ってくるのを忘れてコンビニで買った。
「行人くん?」
コンビニを出ると声をかけられて、それが誰か分からず僕は呆けた顔でその人の顔を見てしまった。
「美紀さん」
するりと声が出た。
「うん、こんにちは」
「こんにちは、です」
兄の彼女の美紀さんだった。
コンビニの前に立っている美紀さんは誰かを待っているように見えた。僕は、じゃあと言って踵を返そうとして美紀さんに呼び止められた。
「ねぇ少し喋っていかない?」
「いいですけど。人を待っているんじゃないんですか?」
「少し早く来ちゃったから、暇なの」
「なるほど。デートですか?」
「んー、そんなとこかな。あ、君のお兄さんじゃないんだけどね」
「別れたんですか?」
いつだったか、兄が深夜に怒鳴っていたのを思い出す。
「うん。ちょっと前にね」
「そうですか」
「ん、なに、その顔?」
「なにがですか?」
「残念そうでも、嬉しそうでもないなぁって」
確かに残念でも嬉しくもない。
「美紀さんって兄のどこが好きだったんですか?」
僕の問いに美紀さんはしばらく考え込んだ後に
「なんかね、苦労していないなぁって感じが新鮮だったんだ」と言った。
「苦労していない人が好きなんですか?」
「その前の彼氏の苦労自慢が煩わしかったからね」
「じゃあ、次に付き合う人は、苦労してるけど、苦労自慢はしない人ですか?」
「さぁ」
美紀さんは楽しげに歯を見せて笑う。「行人くんと付き合うのも良いなって思うけどね」
「それも良いですね」
と言いながら、僕は恋愛がすべてって感じの美紀さんと付き合うのは辛いなと思う。
「君の言葉には、いつも重さがないよね」
「重さ、ですか?」
「実感のない言葉をぽんぽん投げているような気がする」
「よく分かりません」
美紀さんが僕のおでこに手を乗せた。
「君さ、何でも言えるし、何でも出来るって思っていない?」
「どうしてですか?」
「自分がないから、その場の流れでなら何でも言えるし、プライドなんてないから何だって出来る、って本気で思っているでしょ?」
確かに美紀さんにここで靴を舐めろと言われたら、できると思う。
たいしたことじゃない。
殴られるとか、服を泥で汚されるとかよりも全然マシだ。
あ、でも、殴られるとか、服を泥で汚されるのも別に良いか。
殺されるよりはマシだし。
「ねぇ行人くん。じゃあ、私と付き合ってよ」
「良いですよ」
当たり前のように僕は言った。
美紀さんがにっと笑った。そして、僕のおでこにデコピンをした。
「嘘つき」
その通りだと思った。僕は嘘つきだ。
○
「スクールカウンセラーって仕事、知ってる?」
と美紀さんが言った。
知らないです、と僕は答えた。
「心の問題の専門家で、小、中、高校で、生徒や保護者の悩みを聞くのが仕事なんだ。話を聞くだけなんだから、簡単に思えるけど実際、すごく難しいんだよ。とくに言葉にできない事柄を抱えた人の話を聞くのは」
そうでしょ?
と言わんばかりに美紀さんが僕を見た。
僕は目を逸らした。
はじめて、美紀さんの視線から逃げた。
「言葉にできず、それでも何か言おうとして、ため息やうめき声しか出てこない。それを黙って聴いて、待っているのが本来の正しい人間関係だと思わない?」
なにを言っているんですか?
と言おうとしたが、できなかった。僕は一度、待てなかったから。結果が欲しくて、楽になりたくて僕は待てなかった。
「けど、それって難しいよね。大人でも難しいのに、中学生なら尚更だよね。行人くんの周囲にいる同級生も待ってくれない。すぐ言葉にすることを求めてくる。だから、言葉が軽くなるし、断定的になる。まるでバラエティー番組だね。ああ言えば、こう言うみたいな決まりがあって、反応は早ければ早い方が良い」
教室にいると、それが正しいのだと僕は思った。反応を早くして、笑いの決まりごとを決めて、言葉を軽くして。ノリだけで生きているみたいにして。
そうすれば、教室で浮くことはないし、友達だって出来る。
「曖昧な言葉が許されない世界で君は器用に生きている。嘘をついて、流れに逆らわない言葉を身につけて。本音を隠した。立派だと思うよ」
ありがとうございます、
と言おうとしたが、やはりできなかった。
「でもね、たまには言葉にできない体験を言葉にして、在り来たりで陳腐な言葉にしないと、パンクしちゃうよ」
大きく息を吸った。そして、僕はへらへらと笑った。
「それで、美紀さん。スクールカウンセラーはこの話にどう絡んでくるんですか?」
楽しげに美紀さんが僕を眺めた。「私ね、君の年くらいにお世話になったの、スクールカウンセラーに。紹介してほしかったら、言って」
「分かりました」
「あと、煙草は程ほどにね」
「そーですね」
バレてたのか、と思ったが、それほどショックではなかった。「僕からも美紀さん、ひとつ良いですか?」
「なに?」
「今度、兄貴には内緒でセックスしましょ」
美紀さんが噴き出すように笑って、「もう少し成長したらね」と言った。
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