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ブックデザインの女王 イルマ・ボームの意思の力

先日、縁あってオランダのグラフィックデザイナーであるイルマ・ボームさんの通訳をさせていただく機会があった。イルマさんによるレクチャーやインタビューを見るにつけ、本作りへの強い意思と、彼女の生み出す本の美しさに、何度も何度も恋に落ちるような思いだったから、調べたメモをもとに彼女のことを少し書きたいと思う。(Photo credit: Ilvy Njiokiktjien for The New York Times)

ブックデザインを志したきっかけ

1960年にオランダ東部の街 Lochemに生まれる。画家になることを目指してAKI Academy of Art & Designに進学するも、自分はアーティストにはなれないと感じたイルマは、ペインティング以外の学部を訪ね歩いたという。そんなときAbe Kuipers (アベ・キウパース)による授業に出席したことがきっかけで、本の道を志すようになった。

キウパースは毎週水曜日、本をパンパンに詰めたスーツケースをもって教室にきたそうだ。そして詩や哲学、小説、地図帳などあらゆる種類の書物を見せながら、それぞれの本の中身や属性が、いかにその本のサイズやフォルムを決定するかを生徒たちに説いた。キウパース自身は幻想的で明るい色遣いで知られる画家であり、それはブックデザインの授業ではなかったのだが、イルマは彼の授業によって「自分が突き詰めるべきは本だ」と強く思ったと語っている。

こうしてグラフィックデザインを専攻するようになったイルマは、在学中に国立の印刷出版部門や、Studio Dumber、テレビ局などでインターンを経験する。彼女が悪戯めいた笑顔でよく話すのはWim Cromwel が設立した Total Designで面接を受けたときのこと。ポートフォリオを見せたイルマに対して面接官たちは「あなたはいつも、こんな風にいろいろなサンセリフのタイプを混ぜて使うの?」と聞いたそうだ。良かれと思って頷いたイルマは「じゃあ私たちと仕事をするのは無理ね。ここでは Helveticaを使うのよ」と不採用にされてしまったという。

最初の職場で掴んだチャンスと悪評: The Annual Dutch Postage Stamp Book

1983年に美大を卒業したイルマは、学生の頃にインターンをしていた国立の印刷出版部門(Staatsdrukkerij en -Uitgeverij the state-owned printing and publishing office)に就職することになる。「保守的」とイルマが言い切るここでの仕事は単調なものだったと彼女は言うが、誰にも注目されずに自分で好きなようにデザインをすることができたという意味で、ここで働いた5年間は実りあるものだったと振り返っている。

そしてここでイルマが手掛けた、切手年鑑の広告がOotje Oxenaarの目にとまり、1987年と1988年の2冊の年鑑を、無名の若手であったイルマがデザインすることになる。この年鑑とは1920年からthe PTT Art & Design Departmentによって制作されていたもので、Wim Crowel や Karel Martensといった錚々たるデザイナーたちが手掛けているものだった。

しかし、その制作スケジュールは3か月で2冊の年鑑をデザインするという非常にタイトなものであり、画像の収集と補正を含めた、ありとあらゆる作業を自分一人でこなさないといけなかったという。さらには、イタリアのグラフィックデザイナーMassimo Vignelli (マッシモ・ヴィネッリ)の言葉を引いて「BC (Before Computer/コンピューターの前の時代)とイルマがいうように、コンピューターが普及する前の時代であり、素材を切って貼ってゼロックスでプリントするという手法がとられていたので、その作業量は膨大だった。こうした時間上の制約からも(と本人は冗談をまじえて話しているが)、イルマはこの本で、あらゆる要素をページの中心に置くというルールを決める。画像もテキストもキャプションさえも、ページの中心から始まるのだ。

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イルマはこの年鑑を「発行された切手のデザインを紹介する」のではなく「切手のデザインされたプロセス」を見せるものにしたいと考えた。しかし、イルマのいう「デザインのプロセス」とは同時に「あらゆるものは既にデザインされている」という彼女の信じる命題に基づいた、時代を超えた絵画・デザインの連環を描き出すものだったのである。例えばアンディ・ウォーホルの絵画が、いかにレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に影響を受けているか。例えばALESSIのエスプレッソマシーンの鋭角が、中世に描かれた絵画に登場するモチーフにいかに似通っているか。そして当時発行された切手のデザインを、20世紀前半のロシアのポスターと並置するなど。

さらに、この本では、当時イルマが夢中になっていたというマレーヴィチの「黒の正方形」へのオマージュとして、あらゆるテキストが正方形に収められていた。その完成度を損なわないためにハイフネーションは認められず、段落分けは消滅していた。(段落の最初の単語は太字になってはいるが。)そして両面印刷されたシートが、日本式の袋綴じになっており、ページ番号を含めた要素が印刷された中面は、上下から除くことでしか見ることができないものだった。

こうして出来上がった年鑑は切手コレクターたちから次々に返本され、たくさんの苦情の手紙が届いたという。イルマ自身、最初に本が出来上がった時すぐに捨ててしまったと笑うが、それが「ベスト・ブック・アワード」に選ばれたことで、デザイン界からのさらなる反感を買うことになる。”Brilliant Failure (素晴らしい失敗作)”と審査員に呼ばれたこの本は、彼女に「オーディエンス」の存在を気づかせたとイルマは語る。この本によって、イルマはグラフィックデザイナーとして認知され、友とそして多くの敵を作ることになった。

2136頁、3.5kg、11cmの本: SHV Think Book

1991年にIrma Boom Officeを設立したイルマが、美術史家の Johan Pijnappelと5年の歳月を費やしてデザインしたのが1996年に出版された『SHV Think Book 1996–1896』である。

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オランダの貿易会社SHVの100周年を記念する本であり、SHVのCEOであるPaul Fentener van Vlissingenからの“make something unusual (普通でないものを作りたい)”という依頼によって始まったプロジェクトだった。初めのうちは、DVDを作ろうというアイデアもあったそうだが、今後500年にわたって株主になる人々に読み継がれるものにしたいというコミッショナーの願いから、よりオーソドックスな本という形になったという。

100年間のSHVの歴史が現在から過去に遡るように記された2,136頁の本書は、重さ3.5kg、厚み11cmにのぼり、小口を左に傾けるとオランダの詩人Gerrit Achterbergの詩が、右に傾けるとカラフルなチューリップ畑が浮かび上がる。ステンレススチールを背表紙に入れることで、完璧にフラットな状態でページを開くことができるようになっている。こうした分厚い本のエピソードとして、SHV Think Bookが出版される半年ほど前に、レム・コールハースの『S, M, L, XL』が発表されたときは驚いたとイルマは話す。後年、何冊も一緒に本を作ることになる二人が引き合わされるのはニューヨークだが、彼らの出会いは、この頃から準備されていたのかもしれない。

そしてコミッショナーからコカインを吸っているのではと疑われたくらいだと笑うイルマのエピソードが語るように、イルマとJohanは四六時中、SHVの地下倉庫で会社の歴史を調べ、編集し、一冊の本にまとめあげていった。本が完成する頃には「Johanは髪の毛を失い、私は体重が増えて魚のような肌になってしまった」と冗談のように話すイルマだが、24時間/週7日、本を作っているというイルマの姿勢は、今も昔も変わらないようだ。

本の力を証明する: Sheila Hicks ”Weaving as Metaphor”

イルマのデザインした本のなかで、最も重要な本といっても過言ではないのがアメリカ人のテキスタイルアーティスト Sheila Hicksの作品集『Weaving as Metaphor』だろう。着想から4年以上をかけて出版された本書の制作過程は、イルマ・ボームというデザイナーの意思の力に貫かれたものでもあった。

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この本の特徴的な点を挙げるとすると「ギザギザの小口」がその筆頭にくるのではないかと思う。これはSheilaの作るミニチュアのテキスタイルの端にインスピレーションを受けたもので、水でふやけたような一枚一枚表情の異なる小口は、他では類を見ない。自分の頭の中に思い描いていた通りのものを実現するために、多くの印刷会社・製本会社をあたったとイルマは言う。

そしてSheila から渡された美術批評家Arthur Danto(アーサー・ダント)の「Weaving as Metaphor and Model for Political Tohughts」という文章からインスピレーションを得たイルマは、彼のテキストを読者に読ませるためにあることを思いつく。初めは文字サイズを大きくして、ページをめくるごとに文字サイズを小さくしていくというデザインだ。これは「文章を軽んじている」「著者の気分を害してしまう」と編集者/出版社から大いに反感を買って反対をされるのだが、イルマは「だったら本人に聞いてみよう」と切り返す。そしてアーサー・ダントに尋ねてみたところ「私の文章がグラフィックデザインによってこんなに良くなった例はない」というくらい気に入ってもらえたそうで、イルマのデザインは採用されるにいたった。

さらに、この本で最も「戦った」のは表紙だとイルマは言う。そもそも出版社は真っ白の表紙というのを嫌うのだ。手に取ると汚れてしまうし、PDFやオンラインでみるとまったく白紙のように見えてしまうから。そして出版社も編集者も、そしてアーティスト自身も、作品の画像を表紙に載せたいと主張したが、イルマはそれには反対だった。何故なら作品画像を表紙に載せてしまうと、テキスタイルに興味のある読者にしか、本を手に取ってもらえないからだ。より多くの人々に響く本にするために、この本は画像のない真っ白の表紙になることをイルマは強く主張した。

こうした数々の「議論」の果てに完成した本書はニューヨークでのSheilaの展覧会のオープニングで発表されることになったのだが、出版社・編集者との関係が悪化していたことからイルマはニューヨークには行く予定は無かったのだという。しかし本が到着した日に、彼らから「なんて美しい本なんでしょう!ビジネスクラスの航空券を用意するから、今すぐNYに来て!」と電話がかかり、もちろんイルマは飛行機に飛び乗ってオープニングに参加。本は飛ぶように売れて、今は第5版が出版されている。


民主的であること、自分の心に正直であること

イルマはこれまでに300冊以上の本をデザインしており、ここではとても書ききれない。だけど彼女のレクチャーで繰り返し語られる「民主的であること」「自分の心に正直であること」というイルマの価値観について、少し書いておくべきだと感じている。

よく自身のデザインを建築に引きつけて話すイルマは「私はヴィラを作ることには興味がない。誰にでも手が届くソーシャルハウジングを建てたい。」としばしば語っている。これは一点ものの手製本ではなく、大量生産できる本を一貫して作り続けるイルマの根底にある哲学に通じるものでもある。徹底的な議論のもとで続く本の制作プロセスは、過程そのものが「デモクラシー」を体現しているのかもしれない。

こうした民主主義を成立させるのは「自分の声」があるという前提ではないだろうか。彼女は度々「follow your heart」という素晴らしい言葉を口にするが、それは本づくりに夢中であり続けてきたイルマが、あのキラキラした目で語るからこそ人を惹きつける。彼女が人生をかけて追及してきたブックデザインは、彼女が手掛けるそれぞれの本に彼女の声を付加するものでもある。

民主的であること。自分の心に正直であること。これらが両立する地平で、はじめて開かれる現場で、イルマは意思の力を貫く。彼女の言葉は強くて、優しい。

イルマのデザインした本(抜粋)

◎1999年 Monography Otto Treumann
◎2002年 Tutti i Motori Ferrari 
◎2005年 Kleur/ Farbe/ Renk/ Chromo 
◎2007年 Petra Blaisse, Inside Outside
◎2008年 Wim van krimpen
◎2009年 Every Thing Design: The Collections of the Museum of Design Zürich
◎2010年 Biography in Books
◎2010年 James Jenifer Georgia
◎2011年 Knoll Textiles 
◎2011年 The Architecture of the Book
◎2011年  Project Japan: Metabolism Talks
◎2012年 Color Based on Nature
◎2013年 The architecture of the Book
◎2013年 1001 Vrouwen uit de Nederlandse geschiedenis
◎2014年 Chanel: Livre DyArtistes
◎2018年 Elements of Architecture

参考サイト

https://www.moma.org/artists/33693?=undefined&page=&direction=
https://www.itsnicethat.com/features/irma-boom-in-conversation-graphic-design-160320
http://www.eyemagazine.com/feature/article/reputations-irma-boom
https://www.gsd.harvard.edu/event/irma-boom/
https://channel.louisiana.dk/video/irma-boom-my-manifesto-book
https://www.nytimes.com/2017/01/16/arts/design/irma-boom-bookmaker-vermeer-prize-amsterdam-library.html

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