紙に書く日記
最近noteを更新する頻度が減ってしまったのですが、その間も書くことは続けていました。
何を書いていたかというと、日記です。
100均で買ったノートに、いろいろ書いていました。
以前にも、ちらっとつぶやいたことがあるのですが、noteに書くような不特定多数の人に向けて書く文章とは別に、自分しか読まない文章も、たまには書いてみるのがおすすめです。
アナログな方法ですが、紙の日記は、死んだ後に家族に見られることさえ気をつければ、誰に見られる心配もありません。
そして「あ~、これ書いたらこう思われるかなぁ」といった、他人の目を心配しなくても良いので、自分の気持ちを素直に書けるし、めちゃくちゃ個人名を出したり、罵詈雑言を書いたり、恥ずかしい過去もなんでも書けるので、かなり気持ち良いです。
そんなことで、私が特に書いていたのは、自分のトラウマについてです。
私は、自分に自信が持てなくて、自分のことが嫌いでした。
けれど、子どものときはそうじゃなかった。
自分のことが好きだったし、自信もあった。
では、どこで変わってしまったのか?
理由は一つではありません。沢山の出来事があって、少しづつ、天狗の鼻がポキポキ折れて行って、いつのまにか「自分のことが嫌いな自分が好き」という自分ができあがってしまっていたのです。
じゃあ、どういう出来事があったのか。これじゃないかなぁという記憶をたどり、どんな小さなことでも丁寧に、書いていきました。
自分自身の嫌だなぁと思う所や、なぜか気になって心が落ちてしまうことをいくつか挙げて、一日一個に絞って、何日間かかけて書いて行きました。一日一個にしたのは、それと向き合うのは、かなり疲れるからです。なので、精神的にほんとに危ういひとは、あまりやらない方が良いかもです。できそう。と思う人だけやってみてください。
もう一つポイントは、誰か、好きな人に向かってお手紙を書くような感じで書きました。他人に見られないように書くのに矛盾してるかもしれないんですが、誰かに話を聞いてもらってる感覚になるので、少し冷静になれて、自分が崩壊するのを防ぐかもしれません。
細かい内容については恥ずかしいのでここでは書きませんが(だから紙に書いてるんだもんね!)一つだけ分かったことは、他人にとってはとても小さいと思える出来事でも、自分にとってはとてつもなく大きな意味を持っていることがあるということです。
例えば、私は中学校の給食でゼリーが出た時、小学校の頃と同じように、周りの友達に「ゼリーちょうだい」と言って、もらっていました。しかし、それを見た別の友達が二人でやってきて、「あんまりそういうの言わない方が良いよ。断れない人もいるんだから」と、注意されたのです。私は、天地がひっくり返るような衝撃を覚えました。以前通っていた別の地区の小学校では、それがあたりまえで、みんな(と言っても主に男子)普通にやっていたので、それが悪いことだとは1mmも思わなかったのです。
しかも、注意してくれた友達は、とても言いにくそうにしていました。そんな状態になるまで私は気づかず、何度も給食を無心していたということになります。私の中のあたりまえの基盤が180°ひっくりかえり、そこに残っていた自信というものが、すっかりこぼれ落ちてしまいました。
そこで、もう私は私を信じられなくなってしまいました。
これは、私にとって衝撃的なできごとでした。
今考えれば、それによって、初めて私は遠慮ということを知ったような気がします。注意してくれた友達は、私よりも何倍も大人だったのです。
このような出来事が積もり積もって、人はだんだん自分を好きになれなくなってしまいます。
けれど、もっと大人になると、大事なのはバランスだということに気づきます。他人と自分のバランスです。他人に食われてしまうと、自分が自分でなくなります。そして、自分のことが嫌いになると、他人のことも、心から好きになれなくなります。そして何より、生きてて楽しくありません。
と、いうことで、私は本来の自分大好き人間に戻りたいと思います。
いつか、「自分のことが好きな自分が好き」な自分に、なれるといいなと思います。