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整理のために書いた文です

目覚めたブラックさと子、自称作家となってこれまでの鬱憤を晴らすかのように暴れまくる!

という事態を予想していたのだが、そうはならなかった(今のところ)。

ブラックさと子はただ気づいてほしいだけであったようだ。抑圧している己がいるぞ、ということに。気づいて、そうかそうかと言ったらすっかり満足して今はルルルと踊っている。

この件に関して、前の投稿を公開してしばらくしてから整理できたことがいくつかあるので、時間が経ちすぎないうちに書いておきたい。

まず、枠を作ることが悪いわけではないということ。

枠というのはこの場合、肩書きのような役割のことなのだが、特定の役割を担うことによって見えてくる視点というのはあって、異なる視点を持って体験をすることは、自分というものを豊かにするし、そうやって自分を豊かにすることこそが生きるということなのでないかとさえ思っている。

たとえば親になって初めて親の気持ちがわかるとよく言うけど、親の役割をすることで体験できる世界はその役割を担わないことには本当には得られないだろうし、親でない自分しか体験していないのと両方を体験したのでは体験して得たことの多様さが違うと言えるんじゃないか。

そして魂(というものがあるなら)は、多様な体験をしたいんじゃないか。

だから、ブラックさと子が憤慨したのは私が肩書きや役割を持っているからではなく、私の存在という、もっと広くて自由なはずの自己を何か一つの肩書きや役割と同一視しようとしまっていたからというだけである。

言わずもがな、私にはいろんな役割があっていいし、それぞれの役割が象徴する何かが時には矛盾していたってかまわないはずだ。

もう一つ痛烈に思ったことは、安易な答えに飛びついてそこで終えるのはもうそろそろやめたい、ということ。

自分を掘って硬い土に当たると「ここだったか!」という納得感があるし、理由なり理屈なりがわかった気がしてちょっとしたカタルシスもある。もちろんそれはそれで大いに味わいたいけれども、掘り当てた土の下にはきっとまだまだ何かあるはずで、私が見つけ出した答えはあくまでもその時点で突き当たったことにすぎないのだということは心しておきたい。

私はマグマまでは突き当ててないぞ、と。

感じることと考えることはしばし対極のように語られて、「現代人は考えすぎだ、感じることを大事にしよう」というようなメッセージを時折見聞きするのだが、感じているだけではただ反応しているというだけの生き物にすぎず、感じていることをもとにどうしたいか、どうしていきたいかを考えて動くということをしたくて人間をやっているんじゃないかと私は思う。

だから、考えても考えても答えにいきつかない可能性があることを認めつつ、でも考えることを諦めないでいたいし、誰かに「見つけたよ!」と誇れるような答えが出ていないときでも、いや、なんなら出ていないときほど、言葉にしてみることをよしとしたい。

これを機に、長らくこじらせていた、書くということについて、自分を表現するということについて、なんらかの光がもたらされるといいなぁと願うけれど、ま、期待はせずにケセラセラでいこう。

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