食品添加物と死生観
「もう、ここにはいない。」遺体を見た瞬間に感じたこと。
数年前、入社前からお世話になった上司が亡くなった。口の中のガンだった。お酒と、お風呂と、畑が好きで、色々勉強して、話すことが好きな人だった。
彼女の死は、私の死生観を形づくってくれた。
四十九日は、ご褒美時間
お通夜。棺桶の中の彼女に会う。
「あ、もう、ここにこの人はいないな。」と感じた。
悲しくて悲しくて、涙が止まらないんだけど、同時に、お酒を飲みながら、畑に行って、温泉入って楽しんでいる映像が浮かんだ。そうしたら、「みんな、あなたのためにここに集まって悲しんでるのに、何自分だけで楽しんでんの?」って、なんだかムカついてきたんだ(笑)。
心は悲しくて、でも「イラッ」とした感情も生まれ、でも、「あぁ、やっと解放されてよかったね」という安堵感もある、不思議な感覚。
人は、肉体という制限から解放された瞬間、時間も空間も制限なく、やり残したこと思いっきり楽しめるのかもしれない。四十九日は、この世からあの世への移行期間と考えると、やりたかったことを一気に楽しめる、ご褒美期間なのかもしれない。そう思った。
体は「カラだ」
遺体を見た時に感じたことがもうひとつ。「あ、カラだ。」
彼女が亡くなるちょっと前に読んだ「日本人はなぜキツネに騙されなくなったか(内山節著)」という本の中にこんなような事が書いてがあった。
日本語でBODYのことを、体という。それは、体=カラだ=空だ=空っぽだ、ということだ。
体は、「ハコモノ」に過ぎないということ。
だからこそ、「いのち/エネルギー」を「ハコモノ」に入れないと、「カラダ」は動けなくなる。「いのち」が吹き込まれてこそ「カラダ」は正常に機能する。
「いのち」と食品添加物
お米はいのち。土の中に微生物をはじめとする多くの生き物がいて、たっっっくさんの「いのち」の積み重ねが凝縮してできた種。農家さんの、「時間」という「いのち」も入っている。
種はさらに「いのち」を生み出すもの。「いのちの積み重ね」を「カラダ」に入れてこそ、「体」として機能する。動くことができる。逆に言うと、人工合成された食品添加物は「いのちの積み重ね」が少ない。だから、食品添加物ばかり食べていると体の調子が悪くなる。
合成食品添加物は「健康に悪いから」「食べちゃいけないもの」というよりも、「(生きていく上で)あ、必要ないんだ」と思えた。
「いのち」を「ハコモノ」に入れなかったら、身体が動けなくなるのは当たり前じゃん!と。
頭で避けてきた食品添加物や化学調味料。私の死生観の中で「不要なもの」になった瞬間だった。
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