ロートル記者の就活日記 #4
この連載もついに…
4月からA市、すなわち埼玉県熊谷市の市史編さん専門員に着任、多忙な日々を送っていて、この連載も終わりに…とはならず、いつ最終回を迎えるか分からない状況になった。選考に最終面接で落ちてしまったのだ。面接の感触はそれほど悪くなく、四分六ぐらいで受かる公算が大きいな、などと高をくくっていただけに、失望は小さくない。
もう一人の受験者である20代と思しき女性の方に軍配が上がったわけだ。若さの可能性や将来性の勝利か、僕なんかよりよほど地理学・地質学の知識が豊富だったのか、あるいはその両方かもしれない(邪推ではあるが)。今となっては彼女の輝かしい前途を祝し、僕にはまた別の使命がどこかにあるのだと気を取り直すしかない。
「サイレントお祈り」も
2カ月ほどの間にハローワークの求人を探し漁り、1965年生まれの男性を読者層とするサブカル誌「昭和40年男」、労働法や自然科学系の硬派な書籍を出す旬報社に応募書類を送ったが、いずれも書類選考でふるい落とされた。ネットで知って2カ月前に応募した山と溪谷社からは未だに連絡がない。これがいわゆる、「末筆ながら今後のご活躍をお祈りいたします」と記す不採用通知もしない「サイレントお祈り」というやつか。
預金取り崩し募る不安
不採用が10社を超え、失業生活も半年を過ぎると、さほど多くもない貯金を取り崩すばかりで、扶養家族がいる身としてはさすがに不安と焦燥感が募る。
確かに56歳という年齢の求職は、よほどの能力とコネがない限り圧倒的に不利である。多くの求人は法令の関係で理由なき年齢制限を設けていないが、実際は若い人材を採りたいに決まっているし、年齢だけで門前払いをする企業も少なくないはずだ。
ハローワークでも記者や編集者の求人はそう多くない。一方、派遣社員の求人サイトに登録すると、昼夜を分かたずひっきりなしに仕事紹介のメールが来て、小泉改革以降、労働市場が様変わりしてしまったのだと実感する。こうした編集や校閲の派遣仕事は不安定な上に、補助的だったり、流れ作業的だったりすることが予想され、今一つ食指が動かない。
商業出版の経験乏しく
専門紙の記者を20年勤め、被災自治体で公的な震災記録誌を複数編さんしたものの、商業出版の経験に乏しい僕のキャリアは、出版不況といわれて久しい昨今、少しでも売れる本を作りたい出版社にはあまりアピールしないのかもしれない。
商業主義が色濃い新聞社を離れた役場の震災伝承の仕事で逆にジャーナリストとしての自覚が強くなったというのに、世俗の言論界に戻ろうとした途端、やんわりと拒絶されるのは皮肉というほかない。
3月にTBSテレビ「報道特集」で、僕が担当した岩手県大槌町役場の津波犠牲職員の死亡状況調査と遺族らの反響が紹介された。この中で、職員111人が津波で命を落とした同県陸前高田市の生還職員の一人が「私たちの市でも同じような調査をしてほしい」と話していた。
改めて使命とは何か
改めて僕ができることは何なのか考えた。やはり、ペンでもって真実を究明したり、掘り起こしたりするのが僕の使命なのではないか。過日、県紙「岩手日報」が通年で記者を中途採用しているのを知り、震災を風化させない報道に尽力したいことや、陸前高田など被災地への思いの丈をエントリーシートに記して応募してみた。結果は、書類選考で不採用。せめて面接で話ぐらいは聞いてくれるかなと期待していたので、がっかりする。
ロートル記者の、明日はどっちだ。
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