キャッチボール

父ちゃん、またキャッチボールしよう


「それでは、通信簿を渡します」
”自分の考えや意見を言うことが苦手”
小学校高学年になると、担任の先生からのコメント欄に3年連続で書かれていた。

「そろそろ塾に通わせようか」両親が話しているのを耳にする。
4年生になると、受験のため塾に通うようになった。当時、クラスで受験する子は、私を含めて5名程度だった。

「私立に合格すれば、将来の安心にもつながるよ。お兄ちゃんも頑張ったんだから」という親の意見とは裏腹に、
将来の安心のため? 兄が頑張ったから? と私には納得感がもてなかった。
でも流されるがまま、塾に通い、受験に向けて勉強付けの毎日になった。


小学生のころ、自然や生き物が大好きで公園や野原に行って、しょっちゅう虫を捕まえていた。捕まえた生き物を、友達といっしょに飼うことも楽しかった。
野原から木の実や花をとってくると、母が「きれいだね! 部屋に飾ろうよ」と喜んでくれた。

自分のワクワクする気持ちを、相手と共有すること。
好きなことをしていたら、相手も「いいね!」と共感してくれること。
私は昔から、人と気持ちが繋がれることに幸せを感じていた。

受験に合格したら、両親が喜んでくれる姿を想像する。
でも勉強は、さほど好きではなかったし、好きな生き物を捕まえることも友達と外で遊ぶことも、一気に減ってしまう。

この頃から無意識に我慢を重ね、自分の中で、どんどん殻をかぶっていったように感じる。自分が本当はどうしたいのか? という気持ちに蓋をしてしまった。

父は教員だったこともあり、家での勉強は管理されていた。
父は酒飲みで、酔っ払うと機嫌の悪さを制御できず、表に出すことがしばしばあった。

算数の問題を解いていて、答えにたどりつけない。
父が問題の解き方を教えるも、私は何がわからないのか、わからない状態。
「何がわからないのか、言いなさい!?」反応の悪い私に、イライラしているのがわかった。
父の態度に恐怖心が湧いて、言葉が出てこない。「やばいどうしよう。怒られる。」算数の問題を考えるどころではなく、頭の中は怒られたくないという気持ちでいっぱいだった。
そんな状態のとき、父は私の頭をよくひっぱたいた。その度に私は泣いていた。

父から勉強を教わることが大嫌いになった。
毎日、父の顔色をうかがい、機嫌の変化に敏感になっていった。

塾の環境にも馴染めず、ほとんど交友関係がなかった。
周りの子に話しかけられても言葉が出てこなかったし、お弁当も一人でポツンと食べていた。
家も塾も、心から安心できる居場所ではなかった。
好きな友達と、もっといっぱい遊びたい。大好きな生き物を捕まえにいきたい。ほんとの気持ちも、いつしか薄れていった。

”自分の考えや意見を言うことが苦手”。通信簿のコメント欄をふと思い出す。

父は、そんな私の性格を心配しての躾だったのだろうか?
そんなことじゃこの先、世の中を渡っていけないぞ、もっと強くなってほしい、という思いからだったのか??

でも私は、そこに愛情を感じとることはできなかった。
厳しさにも、その伝え方、その人に合うやり方があると思う。
「なんで叩くの? やめてよ」当時の私には、伝える勇気がなかった。
私は、父にずっと壁をつくっていた。日頃から父との対話が足りなかったからだと思う。

今は亡き父へ。

今日は学校でどんなことがあった? 何かにチャレンジしたの? どんな失敗をしたの?
何のために、塾に通って勉強するのか、一緒に考えようか。
たまには一緒に虫でも取りに行ってみないか?
色んな『問い』を投げかけて欲しかったな。 

私は何を思い、どうしたいのか。自分で考えたことを、言葉にして表現する力をつけるために。
そしてお互いの心を、通わせるために。

私でもキャッチできるような、優しい球を投げてほしかった。
何より、そんな愛のあるキャッチボールを、もっとしたかったな。

父も年齢を重ねるにつれて、穏やかな性格に変わっていった。
実家に遊びに行くと、優しい笑顔で話してくれ、壁も段々と薄れていった。
亡くなってから遺品を整理していると、小学生の頃にプレゼントしたマフラーが出てきた。懐かしさが込み上げてくる。
「ずっと大切に持っていたのよ」と母から聞いたとたん、家を飛び出した。自然と涙があふれてきて、止まらなかった。
父の根本の優しさに触れられたようで、両想いになれたようで、心がポカポカだった。

そうか。私がしてほしかったことを、周りの人に対しても、していけばいいんだ。
父ちゃんのお陰で、大切なことに気付くことができたよ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?