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「読む」とは哲学的にいかなることなのか?(デリダ『グラマトロジーについて』読書会の終わりに)

※ 一年近くかけて実施した読書会が先日(2021.8.28)終了した。対象図書はジャック・デリダ『グラマトロジーについて』(1967年)。以下は、その読書会の締めくくりとして、最終回で読み上げた文章を一部加筆修正したものである。投げ銭用に有料設定してあるが、無料で全文読める。なお、その途中過程でもいくつかのまとめエッセイを書いているので、お手隙の際にでもお読みいただきたい。

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この読書会のテーマは「読むこと」であった。「グラマトロジー」とは、リトレ辞典によると「文字、アルファベット、音節区分、読むこと(レクチュール)と書くこと(エクリチュール)についての概論」である。以下では、デリダの議論から——それ自体「読む」ことによって——引き出されたいくつかのアイディアをテーマに即して、簡素な仕方ではあるが整序しておこう。

(なお、デリダは私の研究対象ではあるが、この文章自体は「デリダ研究者による、あるテクストの適切な概要」といった性質のものではなく、比較的自由な着想に基づいて書かれていることを先に注意しておく。)

(1)あなたは何を読んでいるのか? ——歴史性、制度、テクスト

テクストを「読む」ことは、テクストと読者が一対一で対決し、長い努力の末その真理や本質を引き出す、といったような営為ではない。読み手、言語、テクスト、真理が一直線に結ばれるこのようなモデルにおいては、テクストは無時間的な真理を表示する透明な媒介にすぎないことになってしまうし、またある「作品」の意味はつねに一義的に決定可能なものとみなされてしまうだろう。このような読解のモデルはデリダにおいて、「書物の時代」——全体性の時代——に属するものと考えられる。デリダのいう「書物の終焉」とは、この全体性の終焉である。

これに対し、デリダのいう「エクリチュール」のモデルにおいては、テクストはその語彙、イディオム、概念によって編まれた特有の歴史性を持ったもの、つまり「編み物(テクスト)」だということが強調される。それは歴史に由来する制度によって規定されている。第一にテクストは、そのテクストごとの成立事情や先行する読解によって織りなされる複雑な連鎖を持っており、そこから切り離された「テクストそれ自体」は存在しないだろう。

しかしそうした事情のみならず、デリダは極めて「表層的」な問題にも拘泥している。デリダはルソーの『言語起源論』の一節に依拠しながら、文字を左から右に読み、右端に到達するとまた左端に戻るといったような「眼の動き」(読む動作)についても言及するのだ。それはもちろん歴史的・文化的に、さらには政治経済的に規定されたものである(実際日本では戦前まで「右から左に」読んでいた)。直線的な文字列は、「手の動き」(書く動作)との相関関係によって歴史的な規定を受けている。私たちの「読む」行為はその制度から自由であったことが一度もないのだ。

テクスト、それはいつでも編集されデザインされた「グラフィカルな」(表記的、書記的)性質を持っている。たとえば文字の大きさ、色、余白、フォント、ページ数……。デリダがしばしば依拠するマラルメは、こうしたグラフィカルな側面の相対性をその「破壊的な」詩によって暴き、「読む」行為がページの余白に依存していること、「直線的」である必然性を持たないことを暴く(ところで、デリダは——不当にも——この点を指摘しないが、多くのテクストには、値段がついている。それはまさに「エコノミー」なのだが…)。

デリダは「痕跡」、「余白」、場合によっては「インク」といったモチーフへの着目によって、哲学的な営為の「中心」にありつつ、これまで透明で無害なものとみなされてきた「読む」・「書く」出来事の歴史性とメディア的(媒介的)側面を焦点化する。

ただし、このように記述すると誤解を生みそうだが、デリダは意味を完全に文字に還元するわけではないし、哲学を物理的な意味でのテクストに還元してしまうわけでもない。デリダの主張の骨子は、「読む」行為——すなわち、主体が何かの対象から「意味」を獲得するプロセス——そのものが、その開始からすでに固有の受動性を持っており、また歴史にすでに開かれており、読む主体によって完全に自由になるものではない、ということである。

デリダのダイナミズムは、この「読む」・「書く」という一見ミニマルで派性的なプロセスを焦点化することで、そこで措定されてきた独断的な先入見を暴き立てる点にある。したがって、しばしば「孤独な趣味」とされる読書だが、そもそも私たちは完全なる孤独状態で文章を読むことなどできない、ということになるだろう。

(2)メトニミーと暴力——脱構築の倫理

さて、「読む」ことは、「書物=全体性」ではなく、「エクリチュール」や「痕跡」や「記号」といった、よりミニマルな地平で捉えるべきだということがわかった。このことは私たちの見方を大きく変えてしまう。というのも、私たちがテクストを読んで「デリダの思想は〜」「脱構築は〜」などと語るとき、私たちはテクストの背景に「デリダの思想」なるものが(最悪の場合には「ポストモダン思想」や「フランス現代思想」なるものが)存在するかのように語るが、デリダが疑問視しているのはまさにこうした構造そのものだからだ。デリダにとってこのような主語は実体的なものではなく比喩的・修辞的なもの、メトニミー(部分で全体を表すレトリック——たとえば「永田町」が「日本の国会」を意味するように)に過ぎないわけである。

ただし、何度もいうようにデリダは「書物」を「エクリチュール」の地平に還元しようとしているわけではない(そのように読めてしまう記述は『グラマトロジー』にあるが)。デリダが他の場所で語っているように、異質なテクスト同士はいつでも「書物」の形に結びつけられうる。それは「編み直し(relier)」すなわち「製本(relier)」されうる可能性にさらされているのだ(論文集『エクリチュールと差異』の初出情報の欄でデリダはこう述べている)。

「書物」の全体性、言い換えれば「作者」は、あくまで存在するかのようにふるまい続ける(ただしそれは開示するべき潜在的な本質ではなく、亡霊的なフィクションである)。デリダが『グラマトロジーについて』の数年後のインタビュー(『ポジシオン』所収)で語ったように、完全な「書物の終焉」も完全な「エクリチュールの開始」も存在しないのだ。その意味では、私たちが読書会で実践したように、「読むこと」は、そして「書くこと」は、数多くの異質な「細部」のあいだに差異を設け、主要に思われる箇所を選びとり、他を捨て去り、全体性を構成すること(「意味」を抽出すること)である。実際、今あなたが読んでいるこの文章も、『グラマトロジーについて』全体の適切な要約とは到底いえないものだ。テクストはもっと異質な主題、余白、偶然性に満ちているのである。

したがって、脱構築にとって「読むこと」とはメトニミーの必然性を受け入れること、「暴力」を振るうことの不可避性を受け入れることだと言うことができるだろう。それはたとえば「あるテクストに暴力的な場面が描かれている」といったこと以上のことを意味している。デリダが暴くのはそれ以前の不可避の暴力、「原−暴力」なのだ。読むことは、何かが語られ聴き取られ目視される瞬間に大なり小なり生じる根源的な暴力、抑圧である

(現実で何らかの倫理的な断罪や糾弾がなされる際、その糾弾そのものは真摯で真っ当なものであっても、この「原-暴力」の地平については全く無視されている場合が多い。)

デリダの脱構築は、全体性を完全に無に帰し革命成就すると豪語するのでもなければ、テクストのミニマルな性質をテマティックに特権化し「細部」のユートピアに耽溺・自閉・逃避するのでもない(だからそれは俗流「テクスト論」とは無縁である)。脱構築は、全体がつねに部分を抑圧してのみ成立することを暴く。それは暴力と権力構造を必然的なものと知りつつ、その抑圧を暴露し、来るべき他者の特異性のために(とのちのデリダなら言うだろう)、部分による抵抗を発見することで「力」の位置を変えようとする、アクチュアルな戦略と文体(スタイル)である。脱構築の倫理はこの点にあるように思われる。

(3)明言と記述

その戦略は、ルソーのテクスト読解を通じてパフォーマティヴに主張されていた(『グラマトロジーについて』第二部のルソー論はしばしば「読み飛ばされて」いる)。ここでデリダは、テクストのうちに明言(=書き手の言いたいこと)と記述(=実際に書かれていること)の食い違いを見出す。デリダが精神分析的な手つきで明らかにするのは、書き手(ルソー)が何かを伝えようと文章を書き始めた瞬間、そのテクストが書き手の欲望を裏切り、むしろそれとは逆の可能性を示してしまうことである。ルソーは、自身の欲望する「不在なき現前」、「外なき内」、「エクリチュールなきパロール」へと向かっていきながら、むしろ「不在」や「外」や「エクリチュール」の可能性を開いている。

上述のように「全体性に対する部分の抵抗」と言ってしまえばとても抽象的に見えるが、ここで脱構築は極めて具体的に、かつ教育的に、テクストの「読み方」を示してくれる。デリダは「記述」による抵抗を最大限に強調し「読む」ことで、「明言」の抑圧と構造的な弱点を暴くのである。

とはいえ、言うまでもないが、ここでもデリダの読解はあくまで戦略的なものであり、無時間的なものではない。言い換えれば、脱構築的な批評がしばしばそうした誤謬に陥るのとは違って、ここでデリダはテクストの隠された真理を示そうとしているわけではないのだ。「記述」は、作家ルソーの固有の欲望やテクストの「本来性」を体現しているのではない。ここで最終的にデリダが主張しようとしているのは、ルソーの「破壊不可能な欲望」(潔癖な全体性を構成しようとする欲望)が、歴史的な由来を持っていることである。それはルソーの欲望ではない。〈西洋〉の歴史が長い時間をかけて醸成し固定化した、歴史的欲望なのである。

ここには、デリダの「内的批評」に対する反発が見て取れるかもしれない。内的批評とは、1950年代に勢いを持った「ヌーヴェル・クリティック」の方向性を示すものであり、たとえばスタロバンスキーの高名なルソー読解(『透明と障害』)がこれにあたる。スタロバンスキーは、外的な規範や判断基準からテクストを読もうとする伝統的批評にあらがい、テクストそれ自体の内的な秩序を明らかにしようと試みた。

デリダはスタロバンスキーから多大な影響を受けている。脱構築は哲学史上のみならず文芸批評の方法論としての側面もたしかに持っていようし、その伝統から遺産継承した要素も少なくない。だがこの一点、つまりテクストを内的に完結したものとみなすかどうかについて、デリダはスタロバンスキーから袂をわかつように思われる。デリダはルソーの固有の欲望を暴くのではない。すでに述べたように、それは数々の異質な制度によって織りなされた「編み物」であり、デリダが読解を通じて明らかにしようとしているのは、まさにこの制度そのものなのだ。

ルソーのテクストはデリダにとって、あくまで「歴史」——デリダが「ロゴス中心主義」、「現前の形而上学」、「音声中心主義」の三つの要素で分析する、西洋の歴史——の抑圧的機能を明らかにし、その脱出の方途を模索するための「範例(サンプル)」なのである。抑圧に対して適切に抵抗するためには、むやみやたらに攻撃的な態度をとるのではなく、まず抑圧の諸効果を分析するところからはじめなくてはならないわけだ。

(4)「哲学的に」読む?

これまでデリダのテクストを「読んできた」私たちはすでに知っているように、実際にデリダのテクストは、単なる論理的なつながりのみならず、イディオムの言葉遊び的な使用や文字上の類似を活かした並列が繰り返されることが少なくない。それが不真面目で非本質的で悪質な遊びと見られたこともあった(もちろん「真面目」と「不真面目」も脱構築の対象である。Cf.『有限責任会社』)。

デリダを「読む」ことは、全体と細部とを常に意識しながら行き来し、隠された繋がりや断絶を可視化するような視点が要求される(デリダの読解スタイル自体が実際にそうであったように)。それはきわめて特異かつ困難な経験のひとつである。ところで、それはデリダの「晦渋な」文章だけに妥当するのだろうか。読むことそのものが、定義上、そのような困難を抱えているのではなかっただろうか。デリダの文章が異化的に教えるのは、「読む」ことそのものの複雑さなのだ。

かくして、誰もが「読む」ことの複雑さから逃避し、テクストから無時間的で一義的な意味を引き出しうる、と信じているこの時代において——しかしこの「時代」はいつはじまったのか、あるいはどこに起源をもつものなのか?——デリダのテクストは薬=毒(パルマコン)として機能しうるだろう。

ところで、このようにデリダはある意味でポスト哲学的な立場から(ただし、単純な「ポスト哲学」など成立しない——哲学からの完全なる脱出などない——というのが脱構築のひとつのテーゼだったが)、哲学的な営為の「中心」にありつつ透明化されている「読むこと」と「書くこと」を焦点化したのであったが、私たちの読書会のタイトルは、独断的に「哲学的に」という副詞を密輸入している(「「読む」ことは哲学的にいかなることなのか?」)。実際にこの一年近くの読書会でお分かりのように、デリダは「読むこと」に問いかけているだけではなく、「哲学」に問いかけ、揺さぶりをかけている。私たちはこの点でデリダに学ばねばならず、そしてデリダより進んで考えなくてはならない。「哲学の終わり」から久しい現在、いま私たちは「哲学的に」をどのように理解すべきなのか?

つまり次の問いは「「哲学的に」とはいかなることなのか?」でなければならない。しかしこの問いは、ここでは開いたままにしておかざるをえない。

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