「人文学の必要」について考えたこと

経緯

僕は大学院でジャック・デリダという哲学者について研究している。
最近は、自分の研究のためにも、デリダの主著『グラマトロジーについて』について、隔週でオンライン上の読書会を行っている(神戸大学で文学研究をしている盟友・松田樹さんが、協力で入ってくれている)。

読書会という語で、あなたはどのようなイメージを持つだろうか。この読書会について言えば、毎回僕が20〜30ページを読みレジュメを作成したうえで、だいたい1時間かけて発表し、その後また1時間程度で一般の参加者の皆さん(凡そ30人)に質問をしてもらうというスタイルだ。

上に見たように、この読書会は民主主義的スタイルをとってはいない。むしろそれからはかけ離れている。一冊をみんなで協力して読んでいくわけではない。僕がとにかく独りでただ勝手に読む。それを皆さんに見てもらって、話したい人に好き勝手に話してもらうだけだ。ざっくり言ってしまうと、僕がデリダのテクストを一定のテンポで強制的に精読するために、皆さんに付き合ってもらっているというのが実情だと思う。

質問はリアルタイムだけではなく、読書会後もGoogle Formsで受け付けている。質問内容は問わない。「デリダのこの文章がわからない」というものから、個々人の関心や趣味や専門から批評や意見まで、なんでも投げてもらっても構わない。何にしろ、それに僕は応答責任があるから、応えなくてはならない。

しかし、この過程では、僕はもはや駆け出しの「デリダ研究者」としてではなく、個人として意見を述べなければならない局面がある。研究者としての僕と、それとは別で(研究の枠を超えて)ものを考える僕との区分は曖昧である。必ずしもデリダを代弁するわけではない。

さて、質問に応えるなかで、面白いやりとりがあったので、編集してNoteにも載せてみたいと思う。

質問内容

質問内容は、ざっくり言って、「人文学の必要」とか「人文学の根拠」を問うものだ。この質問はTwitter上での論争を見たことがきっかけで思いついたようだ。この論争の具体的な詳細は知らないが(Twitterの論争ほど無価値なものはない)、あくまで僕にとって「必要」に思えるかぎりで要約してみよう。

——ある人が疑問を投げかける。そもそもなぜ人文学が特権化されなければならないのだろうか? 

人文学は、人間と動物の構造の差異を根拠に、人間の学の必要を説く。たとえば人間は言語を用いるから他の動物たちとは原理的に異なると言われる。だが、この「他の動物たち」の場合も、それぞれ「他の動物たち」とは原理的に異なる構造を持つ可能性がある以上、この差異は人間に関する学を特権化する根拠にはならないだろう。差異があるからと言って、それに応じた別の学知が必要であるという根拠にはならない。ほかの動物についても、人文学と同様の学問がありうるのではないだろうか?——

当然、この意見に対する疑問もある。そもそも人文学は一枚岩ではない。哲学のみならず、文学、歴史、社会、宗教、法、経済、心理、言語、芸術などなどなど、研究のアプローチの仕方もその厚みもまったく異なるさまざまな学問が一括り・大雑把に「人文系」と呼ばれている。いま挙げた一覧には、むしろ「自然科学的」な学問もあるし、「人文学」だという自己認識を持っていない学問もあるだろう。

だが、そうだからといって、上の疑問が完全に論破されるわけではないだろう。大雑把に「人文系」と呼ばれる学問は、その対象は千差万別あれど、「人間」あるいは「人間が構築したもの」を対象としていることには間違いはないからだ。この意味では人文学とは人間学である。ここで、そもそもなぜ人間を問わなくてはならないのか、という疑問は消えない。なぜだろうか。研究者や大学教員は「人文学を護れ」などと簡単に口にするが、何のために護らなくてはならないのだろうか。

(論争のなかでは、ディルタイの名前も挙がっていたようだ。僕はディルタイに明るくはないが、簡単に言えば、ディルタイは精神科学自然科学を区分する。自然科学が世界の諸々の要素の「原因」を「説明」するのだとすれば、精神科学はそれを「記述」し、「了解」する(これがいわゆる「解釈学」に通ずる)。すべてとは言わないが、この「精神科学」が「人文学」とおおよそ近い範囲を示すものであることは確かである。——だが、これについても、「構造の差異」を「根拠」として「別の学問」の「必要性」を述べていると言えなくはないため、仮にそれを問いに付すのなら、その基盤は骨抜きになるだろう)

このような問いかけに対してどのように答えるべきなのか、そして「人文学」の根拠をどのように考えるべきなのか。それが質問である。

応答

上の論争については知らないから、もっといろいろな論点が出ているのかもしれないが、それを追うことに興味はない。さっそく僕なりの応答を示しておこう。先に言い訳しておくが、これは「デリダの代弁」ではないし、人文学全般を代表するものでもない(先に述べたように、その範囲は異常に広大であり、その全てについて遺漏なく語ることはできない)。ここで語られる人文学は、僕がこれまでに見聞きしてきたものの反映でしかない。誤解を招かないよう、ここでは人文学の流儀に倣って、鍵カッコをつけた「人文学」という言葉を採用しよう。

さて、「人文学」についてその根拠と学問の必要性を説明しろと言われたなら、僕はおそらく、端的に次のように応答するしかない。「無根拠」だし「不必要」だ、と。

だが、そう言うのであれば簡単な話だ。ここであえて迂回して、基礎的なことを確認しておくのもよいだろう。僕たちはそもそも、「必要」という語を、さらには「根拠」や「原理」や「構造」という言葉を理解しているのだろうか。一見自由な道具のように使ってしまっているこうした概念について、僕たちは何を語りうるのだろうか。プラトンあるいはヘーゲル流に言えば、ひとつだけ確実なのは、僕たちは、「人文学」の「必要性」を考えるときすでに、ある種の「真理」の次元に触れつつあるということである。

——「必要」であるか「必要でないか」を判断しているのだから、私たちは「必要」とは何であるかについてすでに知っているはずではないかね?
——その通りです、おおソクラテス。


これはいま僕が適当にでっちあげたソクラテスである。ソクラテスは、アイロニーによって、僕たちがいかに何も知らないかを示す(このアイロニーを経ない哲学には何の強度もない)。僕たちは何も知らない。だがそれでも依然として、そう意識しなくても「知」に触れてしまっている。それによって世界を表現してしまっている。「必要」とはそもそも何だろうか。「学問」とはそもそも何だろうか。「根拠」とはそもそも何だろうか。こうして始まってしまっている思考そのものには、いまだ根拠がない。「人文学」とは何か、その答えに到達するその手前に、すでに「人文学」のファクターが介入してくる。「人文学」の「狡智」がある。

(「文学部が必要かどうか」を考えている時、僕たちは「文学部が何であるか」、「必要とは何であるか」、「必要かどうかとはいかなることであるのか」を知っているだろうか。それを改めて考えるために、あなたは文学部に入学しなければならないかもしれない。)

このように、僕たちは自分たちがそもそも営んでいる生活やそのなかで編まれる思考を、哲学的であれ文学的であれ歴史学的であれ政治学的であれ社会学的であれ、とにかく理解するためには、「人文学」的に思考しなければならない。もしかすると逆のイメージを持つ人もいるかもしれないが、「人文学」とは彼方への超越ではなく、手前をよく見ることだ。見るまえに跳ぶな。(そして時には見ることが跳ぶことなのだ)

だが、残念ながら、そのことは「人文学」の「必要性」を何一つ立証しはしない。だって別に「汝自身を知」らなくたって——つまり「自己了解」などなくたって——生きていけるし、本質なんてなくても言葉は使えるし、ていうか明日からまたバイトだからだ。そんなものはなくても世界は動いている。手前の自分を見るより遠くの他人を見ている方が楽だ。真理とか言ってくるヤツはウザいのでドクニンジンでも飲めばよい。むしろ真理の探究は僕たちの「健康」な生活や「正常」な認識を邪魔することさえある。それは薬どころか毒かもしれないわけだ。

だから結論としてはっきり言えば、ある「停止地点」を求められる学問とは異なって、「人文学」は権利上根拠を持ちようがないと思う。もう少し別の角度から誠実に言おう。「人文学」の「根拠」を定義するものはすでに「人文学」であり、「人文学」の「基礎」を「基礎づける」のも「人文学」なのだから、「人文学」の「根拠」を問うた瞬間、それはどうやっても閉じた円環を作り出す。その根拠を問うときすでに僕たちは問いの対象を自明視してしまっている。ハイデガーが言うように、問いには必然的に論点先取があるのだろう。

「人文学」を超越的に基礎づける外部の視点は存在せず、その外部はふたたび内部になる。仮設的に、その「根拠」を「不在」という名前で呼んでもよい(これは少しデリダ的な答え方かもしれない)。

(同様に、人間と人間以外の動物との差異を考えるのも、動物と動物の差異を考えるのも、それについての学問を作り出すのも、すべて人間である。だがここでも問いがすぐさま追いかけにやってきて、不安にさせる。人間とは何か? あるいは人間とは誰か? 多少デリダ的な言い回しを使うなら、「人文学」あるいは「人間学」、まさにその中においてこそ「人間」という概念が生まれ、批判され、変形するのだから、「人間学」とは「脱−人間学」でも「反−人間学」でもある、ということになるだろう。だがそれでもそれは相変わらず「人間学」である。さも最近降って湧いたかのような面構えをしている「人間学批判」の流れでさえ、もちろん伝統的に「人間学」の内部で行われている)

そういうわけで「事実は本質に先立つ」のかもしれない。それでも「人文学」はあるし、ある問いのスタイルとしての歴史的な厚みを持ってしまっているからだ。それは事実上「在る」。そしてこれまでも「在った」。差異は「学知」の「根拠」を「説明」しないかもしれない。だがそれでも差異はあるし、知もある。それについて僕たちはいかなる形ででもアプローチを開始することができる(大学の中でも外でも)。

そして、「人文学」が絶対的な「知」の根拠を持たないのだとすれば、その学知は「信」に近づくということになる。それはある程度誰にとっても普遍的な問題を扱うが、かといって、誰にとっても必要なものというわけではないかもしれない。「そんなものに血税を使うのはもったいない」かもしれない。いますぐなくなってしまってもしょうがないものなのかもしれない。にしても、たぶん僕はこの「悦ばしき学知」を「信じる」だろうし、抑圧されるなら抵抗するだろう。

そしておそらく、この状況でかりに他人を説得し、あえて自分たちの信念価値をわかってもらおうと思ったら、「根拠」をいくら立証しても無駄だろう。いかにも凡庸なオチではあるが、僕たちには、プラトン以来の伝統に忠実に、「対話」に賭けるしか残されてはいないのである。

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