読むことの始まりにむかって——暫定的な「総括」の試み

前置き

ここに掲載するのは、私が主宰するオンライン上の読書会、哲学者ジャック・デリダの著作『グラマトロジーについて』を読む会(「「読む」とは哲学的にいかなることなのか?」)第8回において読み上げた原稿である。

9月から始まり、二週間に一度規則的に開催されてきた読書会は、第7回(12月12日)をもって『グラマトロジーについて』第一部を読み終わった。その後、読書会ではいきなり第二部の読解に入るのではなく、第8回(12月26日)に間奏的な第一部の「総括」の会を設け、比較的自由な発表会を行った。ここでは、私を含めた5人の参加者が、それぞれの角度(人種・宗教、音楽、政治、文学など)からデリダを読み、あるときにはそこから逸脱し、自身の問題意識に即した発表を行った。発表会は予定されていたタイムスケジュールを大幅に逸脱し、5時間にも及ぶものとなった。そのあとには「忘年会」も行われた。

テクストに比較的忠実に即した「総括」は、参加者にはすでに毎回のレジュメで示しているため、私の発表は『グラマトロジー』のまとめというよりは、私なりの問題提起、パラフレーズに相当するものだった。noteに掲載するにあたって、内容にはほとんど変更を加えていない。ただし、発表した本文には23個の注があったが、noteには脚注機能がないため、文章内に組み込めるものは組み込み、そのほかは省いた。また、脚注ではこの議論のなかで述べている様々な事柄について、これまでの読書会で用いたレジュメを指示し、これまでの読解との連関を示していたが、それについても省いた。そのため、やや根拠を欠いた放言に見えるかもしれないが、お許しいただきたい。
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読むことの始まりにむかって——暫定的な「総括」の試み

2020.12.26

私は書くことが大嫌いである。しかし何もなしで話すよりはマシなので、このように原稿を用意した。このタイトルは1968年に日付けを持つある論考の引用——わずかな変更を加えたが——である( 金井美恵子「書くことの始まりにむかって」) 。引き続いてこの試論も、ふたつの引用から初めてみたい。

——思えばぼくは小さい頃から、字を読むことそのものが好きだった。
——しかしいま、一連のデリダ論の最終的なまとめに入っているぼくは、また新しい問いに悩まされている。それは垂直的読解の成立根拠、暗号への欲望そのものについての謎だ。〔…〕テクスト全体に対し垂直に立ち上がる言葉の力、読者を垂直的読解へと誘う不思議な魅力とは、そもそも何に宿るのか。言い換えればひとはなぜ、「読めない」記号列、外国の文字や見知らぬ固有名に心惹かれ、その意味を解読しようと欲するのか。これはデリダの哲学の核心にある問題であると同時に、一四歳のぼくが滑稽なかたちで取り組んでいた、架空の固有名に宿るリアリティとは何か、そしてそのリアリティをどのように作り上げればいいのか、という課題の変形されたかたちでもある。(東浩紀「暗号と言霊」1997年、『郵便的不安たち』)
結局のところ、私は一種のエクリチュールの欲望から出発したと言っていいでしょう。もうずいぶん昔のことになりますが、〔…〕私がやりたいと思っていたのは、文学的と呼ばれるような何かでした。私は書きたいと思っていたのです。私の関心を引いていたもの、それは文学でした。〔…〕初期の仕事、初期の出版の頃、私は哲学を横断しつつも文学にたずさわるために、いわば一つの妥協案、一つの取り引きを探したのですが、それは要するに「文学とは何か」という問いを経由することでした。(ジャック・デリダ「私の立場」1983年、『他者の言語』)

このふたつの引用は、どちらもが「欲望」に関わっている。少なくとも明示的には、東浩紀はその後この問いを放棄したように思われるのだが、ここで、常軌を逸した「読むこと」への欲望と、「書くこと」への欲望が、注釈者と哲学者に割り振られているということは、ある意味で普通のことである。だがそれにしてもなぜ「欲望」が問題になるのか? 欲望を問うためには、ある広大な地平を準備しなければならないが、ここでそのすべてを論じることはできない。

私は三ヶ月前、この読書会を「もしかすると「読むこと」は私たちの「存在の仕方」や「生き方」そのものに、あるいはその「可能性の条件」に、何らかの仕方で関わってはいないだろうか?」という問いによって開始した。今日の極めて短い時間で——それゆえ、凡庸な結論を箴言めいた言い回しによって粉飾することをお許しいただきたい——試みるのは、自らが提示したこの問いに、ある仕方で答えることである。ここでは、デリダが強調する「ロゴス中心主義の脱構築」という主題がやや退くことになるだろう。このことによって、「読むこと」と「書くこと」をめぐる欲望をある仕方で特徴づけ、今後の読書会の発展、さらには今後の私たちの思考の展開に寄与することが、発表の目的である。

1. 「読むこと」

「読むこと」と「書くこと」への欲望。それはしばしば思想家や作家の天才的な性質に還元されてきた。だがここではそれを避けてみよう。少なくとも経験的な次元から出発するかぎり、「読むこと」の欲望は普遍的に私たちに潜在しているように思える。それはたとえば神話的思考、科学的思考、「陰謀論」に見出すことができる。そしてもちろんこの読書会の参加者の方々にも、私にも見出すことができる。つまり、どのような仕方であれ、ひとは世界を解釈しているのである。そこで描出されてきた「解答」そのものの精度は——それこそが絶えず問題になるのだが——ある意味では相対的な問題であり、いくつかのコードにしたがって決定されるものに過ぎない。問題は、私たちが解釈しており、読んでいるという原−事実である。読んでいるつもりがなくとも、すでに読解は始まっている。

卑近な例をあげよう。目の前にあるコーヒーカップを、白い筒としてでも、硬い物体としてでもなく、「ドーナツ」としてでもなく(トポロジカルに見れば、コーヒーカップとドーナツは同型のものでしかない)、「コーヒーカップ」として理解しているとき、私たちは無数の複合的な要素を綜合することによって世界を読み、出会っている。それは単なる「コーヒーカップ」一般という名詞の抽象的な類に還元されるばかりではない。このコーヒーカップは、何かを飲むものとして (ハイデガーはこれを「として構造」と言う。Cf.『存在と時間』第三十二節「了解と解釈」)、さらにはこの私にとって親しみのあるものとして、誰かから贈られたものとして、古びた思い出が投影されたものとして、戸棚のあの位置にしまわれるものとして、多種多様な(「形容詞的」あるいは「副詞的」な)現れを持つのである。

不条理を理解し、世界を産出するために、私たちは秘密裏に想像力を働かせ、「読んでいる」。この私の立場はある意味でカント主義的でもフッサール主義的でもあるのだが、ここで従うべきはむしろフロイトである。フロイトから出発するなら世界は「夢」だということになるだろう。つまり私たちは「認識」しているというよりは、「判じ絵」を解いているのである(ここで編み出された解答もまた一個の「判じ絵」と化す。こうした言い回しにおいては、さらに私たちはパースに近づく 。シンボルはシンボルを生むのだ)。

この判じ絵に答えはない。判じ絵は差異によって織り成されたテクストであり、絶えず変化する「謎(énigme)」である。デリダの「痕跡の思考」 が要求するのは、「直線」を破砕するような無限の「送り返し」の連鎖である。だが、この終わりのない「夢」の無限退行の最中にあっても、私たちは「答え」の幽霊を見ているのではないだろうか。判じ絵の連鎖(すなわち「歴史」)を停止させたいという欲望、「答え」すなわち絶対的な極(デリダはこれを「超越論的シニフィエ」と呼ぶ)を捉えようとする「破壊不可能な欲望」(デリダはこれを「形而上学」と呼ぶ)は、「読むこと」そのものからおそらく切り離せない。体系的哲学者の著作から、身近な「陰謀論」にまで、この欲望は浸透している。だが、この暴力的な欲望を「倫理的に」糾弾すべきだろうか(「脱構築主義者」たちの一部はそのように振る舞う)。しかし脱構築の地平に立った上で、「形而上学」を、ある常軌を逸した欲望の形態として「肯定」することはおそらく不可能ではないだろうし、デリダに対する不忠実でもないだろう。

どちらにせよ「判じ絵」は、「単なる」フィクションではない。つまり、現実の「単なる」余剰ではない。「実在論」的な思考にとって、現実的な虚構/虚構的な現実あるいは虚構の現実性/現実の虚構性という問題を提起するこの所作は、きわめて不快な遊びに見えるかもしれない。ところでこの欲望をめぐる問題は「人間学的」だろうか。それは人間の「構想力〔Einbildungskraft; 想像力〕」が持つ根源的能動性を証すものだろうか。ルロワ=グーランの卓越した研究を前提とするなら(Cf.『身振りと言葉』)、この問題はむしろ、「人間」の生成と同時的なものでもある。ルロワ=グーランが言う「プログラム」は、「現実の描写」(あるいはミメーシス)/「想像力」(あるいは自発性)という対立、古典的あるいは通俗的にリアリズムとロマン主義という名で呼び習わされてきた対立を無効にするだろう。

諸々のフィクションのリアリティを産出するものは、外部と内部、受動と能動、観察と想像、描写と表現、規定性とオリジナリティ、制度と自由、譜面と即興演奏、読むことと書くこととの、自律機械的でもあるような相互反応である(私はこの関係を「弁証法」と呼びたい誘惑に駆られる)。ルロワ=グーランが「記憶の解放」と呼び、デリダが「痕跡の解放」とパラフレーズするこの機構を、欲望の問題として——ある意味で半歩後退しつつ——捉えることは、依然として可能である。というのも、私が何かを欲望するとき、その欲望は私自身の自発性に還元されないのだから。むしろ、私は欲望させられるのであり、絶えずそれは「プログラム」を構成する。私の欲望は——その「責任」を私が引き受けるかぎりでそれは「私の欲望」だが——どこか他人めいている。

2. 「書くこと」

このプログラムから描き出される歴史の運動はきわめて複雑で歪なものであり、「直線」的なものではなかろう。そういうわけで、すでに問題は「書くこと」に入り込んでしまっていた。「読むこと」を考えることは、「書くこと」を考えることと合流する。「読むこと」は私たちの生存そのものに関わっている。続いて「書くこと」の欲望もまた、死への抵抗として位置づけられるものだ。ここで、新カント派の哲学者で「シンボル形式の哲学」、「文化哲学」を唱えたエルンスト・カッシーラー(1874 - 1945)を引き合いに出そう。

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