見出し画像

翻訳語としての「啓蒙」に関する調査

今回、ふとしたきっかけから「啓蒙」という1つの言葉に関して個人的な調査を行い、最初に設定した目論みに沿う形でその結論を得ることができた。この調査はあくまでも私の趣味であり、本来は自分の中で納得が得られた時点で終わりを迎えるものである。ただ、これを通じて得られた多くの知見を忘れ去ってしまうのはもったいないように思われたため、このnoteという場でもって今回の調査をまとめてみることにする。
このアウトプットを通じて、自分の中でのより確実な知識の定着に期待したい。

調査を始めたきっかけ

当方、もともと本読みではあったため、言葉への感度は比較的強い方ではあったが、翻訳業を始めてからはより一層、身の回りの言葉への関心が高まったように思われる。
そんな折、とあるゲームをプレイしていて、そこに登場する「啓蒙」という言葉が妙に強く印象付いたことがあった。このゲーム内では「啓蒙」が重要な数値パラメータとして機能しており、この数値が高まるにつれて、人知を超えた存在の姿が見えるようになったりする(プレイヤー間では「啓蒙が高まる」などと表現されている)。この設定に対して、最初は「へぇ、面白いことを考えるもんだなぁ」という程度の印象だったが、ゲームを進めるうちに、自分の関心の対象は「啓蒙」という言葉そのものに移り変わっていった。

この「啓蒙」だが、あらためて向き合ってみると、現代ではなかなか出会わない言葉だ。おそらくは、世界史の「啓蒙思想」や「啓蒙時代」で登場する教科書的な言葉として頭に残っている人が多いのではないだろうか。かくいう私もその1人で、今回の再会(?)によってどこか古い記憶が呼び起こされ、啓蒙思想について軽く検索を行って調べたり、また、日常では目にしないためか、この言葉自体に覚える異質さが妙に気になったりもしていた。

その上、自分にとってさらなる揺さぶりとなったのは、「啓蒙」が翻訳語であるということだ。
世界史で習う「啓蒙」とは、ドイツ語の「aufklärung」(英語では「enlightenment」)からの和訳であり、原語の意味合いは「光で明るくすること」で、宗教的・神秘的な迷信などを排し、理性で物事を考察してそれを理解するという行動とされている(個人的には、これもまたオシャレな概念だなぁと感嘆している)。
これは、ほとんどの人にとっては特に響くことのない、単なる学生時代の学習事項に過ぎないのかもしれない。しかし、『蒙(くらい)を啓(ひらく)』で成り立つ「啓蒙」はこの概念に対してあまりにも的確すぎる言葉であり、これを当てはめた人物の驚くべき言語センスに私は衝撃を受け、それと同時に、翻訳従事者としては、「もし自分がこれを和訳するとして、果たしてこんな言葉を思いつくだろうか?」という畏怖の念すら抱くようになっていた。

以上、こういった驚きや感嘆、そして自分の知的好奇心に後押しされる形でこの調査は始められることになった。目標は、『「aufklärung」を「啓蒙」と最初に和訳した人物を探る』というシンプルなものに設定した。
なお当方、学生時代は理系科目を中心に学習した工学部出身者であるため、本稿は日本語に関する言語学や哲学などといった人文学の素養を持たない人間によって書かれていることにご留意いただければ幸いである。

幕末~明治時代の翻訳について

この調査の下地となる知識として、日本における西洋語の翻訳のルーツについて知っておく必要がある。これについては、翻訳語研究者である柳父章氏の著作が特に参考になった(『翻訳語成立事情』など)。

鎖国中の江戸時代にも、外国船との交流があった長崎ではオランダ語の翻訳が行われていたが、英語やドイツ語などの翻訳が盛んになったのは開国後の幕末以降のことであった。西洋の学問を積極的に取り入れた明治時代にかけては膨大な量の学問・思想用語の翻訳が行われており、現代の私たちが耳にする日本語の中には、この明治期の翻訳で造られたものが多数ある(社会、個人など)。

幕末~明治期の西洋語からの和訳は大きく次の2パターンに分けられる。

①単語に対して、元々使用されていた漢字熟語を当てはめるパターン
②従来存在しなかった概念・用語に対して新造語を考案するパターン

特筆すべきはパターン②で、当時の翻訳者が未知の単語に出会った場合は、当然ながらパターン①のように既存の漢字熟語を当てはめたいと考えたところだろうが、その頃の日本語には抽象的な概念を取り扱う言葉が乏しかったため、当てはめが容易でない場合が多かった。こういった場合に、様々な思考の悪戦苦闘を経て生み出されたのが「社会」や「個人」、「恋愛」などといったパターン②の新造語であった。

ちなみに、現代の翻訳でパターン②のように新造語が考案されることは(おそらく)ほぼなく、その意味を誰もが理解しているかどうかは別として、カタカナ表記がそのまま使用されることが非常に多い(コミット、コンセンサスなど)。これについては、現代ではカタカナ語が容易に受容されることが主な要因と思われるが、他には、カタカナ語の響きが好まれる場合があること、または明治期のように積極的な新造語の考案を行う人物がいないことなどが考えられるだろうか。

ここで、幕末~明治期に翻訳を担った人々に着目しておきたい。
先ほどの記述からは、まるでパターン②に比べればパターン①が簡単であるかのように思われたかもしれないが、このパターン①の翻訳作業についても、現代の私たちが手元の英和辞典から訳語を選ぶこととはわけが違うだろう。当時、これを行っていたのは幕府の蕃書調所(後の文部省)や、慶應義塾をはじめとする私塾で養成された洋学者たちだった。翻訳量に応じた対価が支払われるという、現代の翻訳業の源流ともいえる「賃訳」という形態がこの頃には生まれており、官民を問わず、多くの洋学者たちがそれに従事していた。ただ、当時の(特に若い)洋学者たちは和漢の書には通じていなかったため、実際には、彼らが翻訳した文章を漢学者が校正を行うという形式で作業が進められていたようだ。
こういった事情から、パターン①のような既存語の当てはめは、洋学者と漢学者の共同作業から確立されたものが多いと思われる。

また、パターン②のような新造語を考案した著名人としては、学者であり幕臣、そして議員にもなった西周の名前が挙げられる。
「philosophy」に対して「哲学」という訳語を考案したのは他ならぬこの西周であり、これ以外にも、学問全般に関連する膨大な量の訳語が西によって生み出されている(文学、物理など)。そもそも西は明治以前からの知識人であるため、彼自身に十分な漢学の素養があったということが先述のパターン①とは異なる点だが、それにしてもなぜこのような新造語の考案が可能であったのかという点については、現在でも様々な議論が行われているところだろう。
なお、西と近い世代の明六社(明治6年/1873年設立の学術団体、本稿では詳細は割愛)に関連する人物で、明治以前からの学識をもってこのように新造語の考案を行っていた学者は他にも数多くいるが、現代まで定着している新造語の数は西によるものが極めて多いようで、これもまた驚異的な事実である。

「啓蒙」という語について

ここで、「啓蒙」という語そのものについて振り返ることにしたい。

この言葉だが、私の印象としては、率直に言って現代ではあまり良いイメージはなさそうだ。一般的に使われた場合は「知識を与える」というような意味合いになり、これにはどうしても上から目線、つまり(知識的に)立場が上の者から下の者へ向けられるニュアンスが含まれてしまう。もし誰かが「人々を啓蒙する」などと述べていても、あまり良い心地はしないだろう。
こういったニュアンスがあるためか、「啓蒙」は現代ではあまり使用されず、どうしても使用せざるを得ない場合は「啓発」に置き換えられることが多いように思われる。

続いて、この「啓蒙」について辞書を引いてみる。

『新潮日本語漢字辞典』(新潮社 発行2007年9月25日)より、
【啓】①ひらく。(ア)開け放たれた状態にする。(イ)教えを垂れて人を導く。...
【蒙】①知識が少なくて道理がわからない。「蒙昧・童蒙・訓蒙...
『大漢和辞典 巻二』(大修館書店 修訂第二版第一刷 発行平成元年5月10日)より、
【啓蒙】蒙昧を啓發する。童蒙を教へ導く。[風俗通、皇覇]...
『広辞苑 第七版』(第一刷 発行2018年1月12日)より、
【けいもう(啓蒙)】(「啓」はひらく、「蒙」はくらい意)無知蒙昧な状態を啓発して教え導くこと。...
『日本語源辞典』(ミネルヴァ書房 初版第一刷 発行2010年4月30日)より、
【けいもう(啓蒙)】中国語で、「蒙(モウ・知識的な暗さ)を啓く」が語源です。日本では十五世紀ごろから一般化した語です。知識を与え、知的水準を高めることをいいます。

ここで着目したいのは、「啓蒙」は中国の古典(風俗通・皇覇)に由来する言葉であり、日本でも15世紀ごろから使用されているという点である。なるほど、この時点の私は明治期の翻訳に関する書籍を読んでいたこともあり、てっきり「啓蒙」は「aufklärung」に対して考案された新造語だと思い込んでいたのだが、それは全くの勘違いであったらしい。

それでは、実際にこの「啓蒙」という言葉はどれほど一般的だったのだろうか。これについては、国立国会図書館デジタルコレクションのデータベース検索にて、書籍のタイトルや記述という限定的な調査対象にはなってしまうが、検索を利用して調べてみることにした。
先述の幕末~明治期の翻訳事情から考えて、対象期間を西暦1860~1900年(江戸末期~明治中期)、キーワードを「啓蒙」として検索をかけると、検索結果には名称に「啓蒙」が入った書籍が数多く表示される。『数学啓蒙』、『解剖啓蒙』、『中等小学啓蒙知恵之環』などといった書籍があり、これらのタイトルを見ていると、どうやら教科書や専門書などで"啓蒙"はよく用いられており、つまり教育・学術業界においてはかなり一般的な言葉であったことがわかる。
(ただし、ここで用いられているのは翻訳語の「啓蒙」ではなく、既存語の"啓蒙"であることに注意が必要である。これ以降、既存語については"啓蒙"の形で記載する。)

また、国内最初の国語辞典である『言海(大言海)』で"啓蒙"を引いてみると、

大槻文彦 著『新編 大言海』(冨山房 新編版初版第二刷 発行昭和57年4月3日)より、
【啓蒙(ケイモウ)】童蒙ノ智ヲ、啓クコト。童児ニ、教エ示スコト。

という内容になっている。この『大言海』の内容は明治時代の『言海』(明治22年/1889年)のままとなっているため、意味合いとしてはやはり教育的な用語であり、先述のような書籍で用いられていることにも納得できるだろう。
(ただ、『言海』の説明では教示の対象があくまでも子供に限定されているが、実際にはもっと広範な対象に向けた教示の意味でも用いられたものと思われる。データベースの検索結果を見ると、とても童児が学ぶとは思えない専門書にも"啓蒙"が使用されていることが多い。)

以上のことから、"啓蒙"は中国の古典に由来し、幕末~明治期の日本語の中で、特に教育・学術業界では一般的な用語として定着していたことがわかり、よって先述の既存語の当てはめ翻訳(パターン①)で選定されたとしても不思議ではないことが理解できる。

「啓蒙思潮」からの発見

本稿の記載内容はおおむね実際の調査順序に従ったものだが、どうにもこの段階で行き詰まりに直面してしまっていた。
後から振り返れば完全に固定観念にとらわれていたわけだが、西周のこともあって、この時点では明六社に関連する人物が「啓蒙」の訳出を行ったのではないかと目星をつけていた。それで福沢諭吉や中村正直などについて情報を集めていたのだが、どうにも「啓蒙」についての話題は見つからず、また、国会図書館のデータベース検索で昭和も含めた年代範囲で「啓蒙思想」の検索を行っても、翻訳語としての初出はどうもはっきりとはわからない。それにも関わらず、時代を少し下ってしまえば「明治啓蒙期」などという表現が唐突に現れる有様である。

しかし、そうした折に再び辞書を見ていて、次のような表現を見つけた。

『大辭典』(平凡社 覆刻版第五刷 発行1979年2月10日)より、
【啓蒙(けいもう)】知識の普及によって傳統の迷蒙を啓き、社會民衆の思想を自由ならしむること。⇒啓蒙思潮...

この「啓蒙思潮」は現代では聞かない表現だ。字面で意味は判断できるものの、「思潮」というのがなかなか目にしない表現で、結局、「啓蒙思潮」とは今で言うところの「啓蒙思想」になるだろうか。ただ、これまでの「啓蒙」調査で出会わなかった表現というのが自分の中での気がかりとなり、国会図書館のデータベース検索で調べてみたところ、結果には次の書籍が表示された。

『大西博士全集、第3巻 西洋哲学史 下』大西祝 著(警醒社、1904)
 目次:第四十五章 仏蘭西に於ける啓蒙思潮
 目次:第四十六章 独逸に於ける啓蒙思潮

1904年とは明治37年であり、明六社の時代よりはだいぶ時間が経っているものの、出版年としてはかなり古い。そして著者の大西祝(おおにし はじめ)について調べてみたところ、京都大学大学院のウェブサイトで次のような決定的な記述を発見することができた。

京都大学大学院文学研究科・文学部:思想家紹介 大西祝より、
『アウフクレールンクの語を啓蒙主義と訳すのは大西に始まったことといわれる。このことからもうかがわれるように大西の思想は本質的に啓蒙主義的であった。...』

「ついに見つけた、しかもこんなに普通に書いてある!!」という感嘆とともに、思わず身を乗り出していたことをここに記しておく。ただ実際のところ、行き詰まって諦めかけてもいたので、これほど明確な答えが見つかったことにはかなり驚かされた。

大西祝による「啓蒙」

大西祝は元治元年/1864年に岡山にて生まれ、キリスト教の教育を受けて、同志社と東京大学で西洋語や西洋思想などを学んだ学者である。その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)で講師を務め、政府からの任命でヨーロッパ留学を経験するものの、現地で病を患ってしまい、明治33年/1900年に36歳で夭折している。「批評主義」を徹底している人物であり、実際に大西の著作を読むと、用語や概念の定義、そして論理のあまりの緻密さに面食らうことになるだろう。これはつまり曖昧さが極めて少ないことを意味しているため、いわゆる哲学書としては(論理をしっかりと追っていけば)かなり理解しやすいものとなっている。

大西が「aufklärung」の訳語として「啓蒙」を用いているのは、論説『啓蒙時代の精神を論ず』(国民之友 第362号 明治30年/1897年10月)や、先述のデータベース検索で発見した、講義録である『西洋哲学史』(明治29年/1896年~明治30年/1897年の講義)に見られる表現である。その記述箇所を『啓蒙時代の精神を論ず』から引用すると、『ここに啓蒙時代と称するは独逸の学者間に慣用する而して英国語にも其の適当なる訳語を求めんとしつつあるアウフクレールングの時代を指すなり。』となっており、確かに「aufklärung」に対する日本語の訳語を宣言するかのような記載となっている。

それでは、なぜ大西は「aufklärung」に「啓蒙」の訳語を当てることにしたのか。これについては、大西自身が思考の足跡を文章等で残していないため、明確な答えを見出すことは難しい。
大西は先述した洋学者たちの賃訳や西周の翻訳期よりも一世代ほど後の人間であり、その頃には西洋語の辞書がいくつかはあったため、彼が海外の書籍を和訳して読み進めた際は、ある程度は参照できる辞書がある上での作業となったことだろう。そして、当時、"啓蒙"が学術業界では一般的な言葉であったことは先述のとおりである。そのため、西洋思想を学んでいた大西が未知の「aufklärung」の語に出会い、その観念を理解してこれを「啓蒙」と訳出するのは、それほど大きな発想の飛躍を伴うことではなかったのかもしれない。

調査を終えて

今回の調査で、最初に立てた『「aufklärung」を「啓蒙」と最初に和訳した人物を探る』という目標には、『大西祝』という明確な回答を得ることができた。ただ、これはかなり幸運なことだったというのも調査を通して理解した点であり、通常、単語1つであってもその最初の翻訳者を特定するというのは不可能と言えるほどに難しい。
明治期の翻訳書籍を見ると、同じ単語に対しても翻訳者によって様々な言葉が当てられ、また、同じ翻訳者でも同じ単語に当てはめる訳語が時を経るごとに変化していく。1800年代の辞書は、同じ単語でも発行されるたびに訳語が変わっている(これらもまた柳父氏の著作が参考になる)。
こういった事情がありつつも、今回の調査で大西祝という特定の人物に到達できたことは素直に喜ばしく、不思議な縁のようなものも感じている(機会があれば、ぜひとも岡山までお墓参りに伺いたいとすら思っている)。

結果から見れば、かなり遠回りした道のりであったとも言える。
国会図書館のデータベース検索で、対象年代を1900年よりも後にして「啓蒙」のキーワードで検索を行えば、その時点で『大西博士全集』は見つけられていたはずであり、また、辞書調査で最初から『大辭典』を見ていれば、「啓蒙思潮」の表現から一足飛びで到達できたはずでもある。ただし、この遠回りがあったからこそ、明治期の翻訳や言葉の変遷などについて、本稿で記載してきたような多くの知見を得ることができたのだろう。
現代の日本語は、津波のように押し寄せる西洋の学問に対峙した当時の学者たちの並大抵ではない思考作業によって確立されている面もある。もちろん、これは幕府または明治政府の要請から生じた仕事ではあっただろうが、当時の学者の手記などからうかがえる彼らの熱意には単なる義務や職務を超えたものを感じざるを得ず、現代の自分としてはただただ敬意を払うばかりである。こういったことを知れたのだから、月並みではあるが、ときには遠回りも悪くないものだ。

最後に、こんな重苦しく固い文章を読んでくれる方がいるのかどうかはわからないが、もし終わりまで読んでくれた方がいるならば、心からの謝意を表させていただきたい。

【参考文献】
・柳父章『翻訳語成立事情』岩波書店 1982年
・柳父章ほか『日本の翻訳論 アンソロジーと解題』法政大学出版局 2010年
・大久保利兼『明六社』講談社 2007年
・片山純一『大西 祝―闘う哲学者の生涯―』吉備人出版 2013年
・小坂国継 編『大西祝選集Ⅱ 評論編』岩波書店 2014年
・大西祝『大西博士全集、第3巻 西洋哲学史 下』警醒社 1904

【参考になった論文】
・福田眞人『明示翻訳語のおもしろさ』
・長沼美香子『開花啓蒙期の翻訳行為―文部省『百科全書』をめぐって―』
・宮本敬子『「アウフクレールング」は「啓蒙」か?―「アウフクレールング」と「理性の公共的使用」―』2013年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?