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本質に触れたソノサキを大切にしたいよね、という話。


こんにちは。

以前から気にはなっていたんです。
本質という言葉の使い方が。

本質という言葉の意味を調べてみると、

ほん‐しつ【本質】

1 物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。「本質に迫る」「本質を見きわめる」
2 哲学で、存在するものの基底・本性をなすもの。
㋐偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質。
㋑実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの。
3 論理学で、思惟の対象を定義する諸限定。類・種のごとき普遍をさす。→実体 →属性 →本体
[類語]本体・実体・根本・大本おおもと・大根おおね・根ね・本もと・根元ねもと・根底・基底・根基・根幹・基本・大本たいほん・根源・本源・基礎・基盤・基幹・基部・性格

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

だそうです。

以下はあくまで個人的感想です。
特定の何かに物申す意図は全く無いことをご承知おき頂けると幸いです。

本質っていう言葉、なんだか言葉の力が強いと思うんです。

この言葉を多用している人、実際に賢い人も多いと思います。中には賢く見せたくて使っている人もいるんじゃないかなぁとも思っています。

会話の中で「これが物事の本質だ(ドヤァ)」的な発言が繰り返されたなら、心の中で、私は「ハイソウデスカ・・・」って冷めた感じになることがあります。ゴメンナサイ。


「本質」という言葉に「正しさ」と言うニュアンスが含まれているように感じるからかな?

だからこそ、「〇〇に関して、これが本質(正しい)です!」とみたいな感じで断言されてしまうと、正しさを押し付けられているような気さえする。

その「正しさ」はどこから来たのか?
なぜそう思ったのか?
それが正しいのであれば、この現状をどう思う?
そして今後どうしていきたいのか?

こういう問いを「本質」という一言で片付けられてしまうと、なんだか議論の余地がなくなってしまうようで。勿体なく思うんです。

もしかすると、本質そのものではなく、本質と言い切ることで思考停止を促す可能性を感じているからかもしれない。

最近本を読む機会が増えてきている中で、本質を突く内容に触れることもあります。

「ああ、そうだよね。正しいよね。分かるよ。」と共感する一方、その内容を鵜呑みにして「物事の本質を理解できた」と思い込みたくない自分がいます。

例えば、「〇〇という本を読んで、本質はXXと書かれていた。私はこの言葉を見てこう考えた。だから△△をすることにした。」というように。

本に書いてある言葉を自分事として捉えて動くことが私は好きだし、人のそのような話を聞くのも好き。いい刺激になるし、建設的な議論が進むから。

本を読んで理解したと思っていたとしても、実際に動いてみた方が理解が深まるだろうし、なにより自分の考えをしっかり持つことかできるだろうから。

あと思うのが、やっぱり行動に繋げている人って素敵だなぁということ。

本からインプットして行動に繋げて、起きた事象に対して悩み抜き、出した答えを正解にするために実践し、また考え、行動に移す。

その繰り返しや、懸命に立ち向かう姿の、それ自体が尊いんですよね。

考え抜いて行動に移すことの勇気や素晴らしさを、「本質」という言葉で一括りにはできなんじゃないかなぁと思う訳です。

本質という言葉には強さがあるからこそ、私にとっては使い方には気をつける必要があると思っている言葉なんですよね。

自分は使わなくても誰かがその言葉を使うことがあるかもしれない。言論の自由だってある。この言葉自体に良し悪しなんてない。

ただ私は、本質を盾に誰かに正しさを押し付けたくもないですし、言葉の使い方で視野を狭めないようにしたいんですよね。

この言葉を理由に考えるのを止めるのではなく、むしろ本質的な話を起点に、深く考えていく位がいいのかもと思っています。

今回の記事はここまで。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

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