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はるさきの、あめ

春の冷たい雨だった。
朝、僕は学校に行く通学路の途上にいた。
薄手のコートは軽く、空気は柔らかい。
しん、と澄み渡って青いものを肺に満たすと魂までもが洗われる。
ビニール傘を叩く雨の粒は、壊れて流れる出来損ないの星座。形にはなってくれなくて。
このよう清らかな朝を雫の音、排水溝から溢れる軽やかなせせらぎを耳にしながら歩いている。
星座。コンステレーション。
神話時代の人々は、星と星を結んで形をなし、おびただしい物語を紡いだように、僕は、春と雨をモチーフに新たな星座を語り出したいような、今朝はそんな新鮮なすがすがしい気分。
それにしても、と傘ごしに見上げる空は銀の色。すこし冷たくて、すこぶる気持ちのよい星座への道しるべ、いや未知しるべが雨となって空中を風に吹かれて舞い落ち、傘に降りかかるのだった。

「お。川田じゃん」
見知った女子の背中に声をかける。
ツインテールが振り返り、おはよ、と赤い傘がゆれ、中学に入ってからもよく一緒に遊んだ川田が、にこやかに笑いかけてくれる。
「あは。ひろくんだ。久しぶりだね。それにしても冷たくて気持ちのいい雨だね」
僕は驚いてうなずく。
僕も同じことを考えていたから。
川田さおりとは高校に入学してからは疎遠になった。奇しくも同じ高校、同じクラス、おんなじ通学路だっていうのに。
ホームセンターのペット売り場に二人でよく行ったっけ。
銀に光る水槽を下から見上げる彼女の瞳は、ゆらりとした金魚の鰭の動くさまを魅入られたように追っていた。
さおりのペットだった、まんまるで、なぜかピロシキと命名さえた白いハムスターのこと、スイミングスクールでの思い出、それから中学二年の夏、海辺の街に二人っきりで花火を見に行った。花火大会の帰り道、なんだか気まずくなり、それ以来、さおりとの距離は開く一方だった。
それなのに。
「さおり」
昔そうだったように下の名前で呼ぶ。すると立ち止まった彼女は不思議そうな顔をして僕を見つめた。
雨の音だけが聞こえる。星座が形づくられる瞬間だ。

「さおり」
突然、前みたいに下の名前で呼ばれ、びっくりしてしまった。
中学生以来だ。
久しぶりの感覚だった。さおり、と呼ばれるのは。
恥ずかしかった。薄化粧のメイクをまじまじと近くで見られた。わたしの魂もすっぴんに近い。
「きれいだ」
ひろくんは照れずにまっすぐな目をして言った。
え? かわいい、じゃなくて?
ひろくんから、「かわいい」と言われることはあっても、「きれい」と言われることはなかった。
「しれっと、何か恥ずかしいこと、言ってない?」
足を蹴ってやりたかったけど、雨が降っていたのでやめた。
冷たかった頬が火照って熱い。
「バカなこと言わなくていいから。学校、行くよ」
「ああ、うん」

二つの傘は寄り添い、動き出した。
春先の雨の下、新たな星座の物語を紡ぎだす。


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