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牛乳が飲みたい!【ハリス】

江戸時代末期、

「牛乳が飲みたい!」

と牛乳を飲む文化がない日本で、牛乳を求め続けた者がいた。

 日米親好通商条約を求めに下田(静岡県)に来ていた商人、ハリスだ。

 1856年、彼は玉泉寺(静岡県下田市)に滞在することになったが、寺に入ってすぐ牛乳を所望した。

 アメリカと日本の食生活の違いとストレスから消化器官を壊したため、大好物だった牛乳を求めたそうだ。

 当時通訳だった森山多吉郎(後の栄之助。プチャーチン、ペリーが来日した際の通訳として有名ですね)は下田奉行に相談し、奉行所の井上清直と岡田忠養(ただやす)は幕府に報告書を提出。

 その名も
「牛乳の儀に付き滞留の官吏へ及び應接候書付」

 か、堅い・・・。

 以下、「牛乳の儀に付き滞留の官吏へ及び應接候書付」に記載してある森山とハリスの会話。
(森山さんのセリフは、森山さん自身の意見というより奉行所の考えを表しているものと考えた。)

森山
「奉行所に問い合わせてみましたが、日本では牛乳を食用としていません。
牛は農民が田畑の作業や荷物の運搬のために飼育するものであり、子牛が生まれると牛乳は全て子牛に与えるため、牛乳を提供することはできません」

ハリス
「じゃあ僕が母牛を飼って自分で搾乳するよ!」

森山
「今言ったとおり牛は農耕・運搬のために飼っているので
他人に譲り渡すのは難しいんですよ・・・」

ハリス
「じゃあヤギがこの辺りにいたりしない?」

森山
「それが日本にも隣国にもいないんですよね」

 最後の会話に出てきた「隣国」とはどこの国のことだろう。韓国か、中国か。

 どちらにせよ、これは森山の嘘だと思う。

 15世紀以降に中国や朝鮮から日本に渡ってきた肉用山羊は、九州・沖縄地方で飼養されていました。比較的小柄なこの山羊の子孫は現在、沖縄在来山羊、トカラ山羊、屋久島山羊などと呼ばれています。

 乳用山羊は、寛永年間にペリー提督が来日の際に飲用として持ち込んだものが始まりとされています。明治時代には主に、搾乳山羊業者などが輸入飼育を開始し、山羊乳の販売が行われました。明治末期になると、民間でも山羊飼育熱が高まり、政府の奨励策によって、スイスやイギリスなどからザーネン種が輸入され、より多くの乳を出す山羊への改良が進められました。
「よろず畜産」

 また、別の説では推古天皇の時代に百済からヤギ(羊だったとも)が献上されたのが始まりというものもある。

 これらを読むと、「下田の近辺にいない」というのを伝えたかったのか?そしてとにかく早く諦めてほしいかったのだろう。

 森山とハリスの会話の続き。

ハリス
「じゃあヤギを香港に注文してもいい?」

森山
「ヤギは豚のようなものなので、寺で飼うのはちょっと・・・」

 ハリスの牛乳に対する信念がすごい。

 そして2年後の1858年、ハリスは条約締結のため下田から江戸に出ていたが、体調悪化のため下田に戻る。

 そしてまた「牛乳をくれ〜」攻撃開始。
 しかし病気は治らず、危篤状態に・・・。

 そのうち幕府側も、「日本でハリスが亡くなるということは避けたい。牛乳を飲んで本当に元気が出るなら・・・」と協力する姿勢を見せ始める。

牛乳が必要なので、牛を持っている者は相談して、毎日2合ほど御用所へ持参されたい。
下田の御触書
異人が牛乳を所望していると仰せつかり、白浜村から求めた牛乳を玉泉寺に届けた。
興平治の日記
異人が病気で牛乳を薬用とするため・・・
中村名主の日記

 ハリスのために奮闘する町民たち。
 その結果、広い範囲(白浜村、蓮台寺村、大沢村、落合村、青市村、馬琴村)から牛乳が届けられ、ついに・・・。

1858年2月。

ハリス「牛乳だ〜!!」

ハリスは牛乳をゲットした!

日本乳業協会によると、牛乳の量は約1600mlで、代金は数千円~1万円以上。

 この出来事から、彼は日本で初めて牛乳を買った人物だと言われている。

 ハリスは牛乳の効果なのかみるみると体調が回復し、条約締結のためまた江戸へ戻っていったそうだ。


あとがき
とりあえず、1600mⅼもの牛乳を一度で飲んだのか気になる。
そもそも「体調が悪いから牛乳を飲む」ってあまり聞かないような・・・と思いながら文字を打っていたが思い出した。
水戸藩の徳川斉昭だ。たしか斉昭パパは慶喜に「健康のために」といって牛乳や卵を食べさせていたな。
それどころか自分で牧場をつくってチーズの生産までしていたような。
ハリスさん、水戸藩にお願いしたほうが早かったかもしれない。

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