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自己完結の世界から

週末、オンラインのイベント
「オープンダイアローグで深めるセルフコンパッション」に参加しました。

オープンダイアローグとは、対話。
相手やじぶんの今を尊重しながら、話す、と聴く、を丁寧に行うこと。

セルフコンパッションは、じぶんに向けた思いやりです。

なぜ、セルフコンパッションなのか?
わかりませんでした。

安心する場で対話する。
そのことで相手からやさしさをもらうのでは?と思っていたから。

もちろんその要素もあります。

でも、対話において私に必要だったのはセルフコンパッション。じぶんに向けた思いやりでした。

聴けるのに話せない

聴くことは好き。
どんな方ともどんな内容でも
抵抗感なく、その方の今に耳を傾け、心を向けることができます。

でも話すことが苦手。

音声配信など、あちこちで話しているのに?と思われるかもしれません。

私は「じぶんのために話す」のが苦手です。

あれらは「私の」ために話していません。
怖がりで引きこもりな私は、じぶんのためならやりません。

誰かのため、他者貢献ともまた違います。
私という枠が消えたときに引き起こされる行為です。

やさしくできない

じぶんのために話すのは怖い。
それはやさしくない私が顔を出すから。

①上手く話せなかったことに対して

すごく困っていることほど、言えなくなります。
いっぱいいっぱいになり、上手く表現できないから。

勝手に脳内で、意味不明な私に付き合わせてしまった、とじぶんを責め、相手に対し申し訳ない気持ちになります。

②わかってもらえなかった悲しさに対して

勇気を出して話したのに、相手にわかってもらえない。
受けとってすらもらえない。

そんな時、悲しくなります。
でも、わかりあえないのは当たり前。
誰にでもあること。
大したことじゃないから。
平気、平気。

そうじぶんを説得して、またじぶんの世界にひきこもります。
本当は悲しかったのに
わかってもらいたかったのに

①②が引き起こされない時もあります。
でも、これらのリスクとりたくない。
ある意味、話さないのはじぶんを守る行為。

その背景には私の過去の思い込みがあります。

わかりづらい私

私はわかりづらい人。
理由はみんなと違っていておかしいから。

なんで、こんなことを怖がるの?
みんなは楽しめているのに…

私は大人から見て不可解な子どもだったようです。

納得できる説明なんてできません。
あるのは「そう感じている」ということだけ。

その感情を表現すると、やさしい人は「大丈夫だよ」と言ってくれました。

そんなこと考えても仕方なくない?
いいからやりなよ。
面と向かって言わなくても、態度や口調で表現する大人もいました。

やさしい人の想いに応えて大丈夫な私でいたい
誰かに批判されたくない

その結果、私が無意識にとり続けた方法が、本音を「話さない」ということ。

ニコニコして、相手がよろこぶ言葉を差し出す。
これこそがコミュニケーション。
相手に対する優しさだと思っていました。

でも、じぶんにとっては優しくなかった。

自己完結の世界から出たい

アナと雪の女王のエルサみたい。
じぶんで氷の城をつくって、そこで満たすという行為をしました。

誰にわかってもらえなくてもいい。
私だけが私の味方。

それこそ、少しも寒くないわ、って。
ひとりの時間も好き。
でも、ずっとは寂しい。
私は本当はみんなと調和したかったようです。

「おかしな私のままで」

そのために必要だったのが、私が心を開くこと。
世界を信頼していくこと。
わかってもらえなくて悲しい私。
上手く言えない私にやさしさを向けること。

今、私はちょっとずつ練習しています。

今回対話した方は、みんな受けとめてくれました。

私のため話したことなのに、相手の方もじぶんの中にあるものに気づかれて、よろこんでもらえました。

私が話してもいいのかも。
今、少しずつ心の奥底の氷が溶け始めています。

もちろん世界中の全ての人が、今回の方達のように、いつだってやさしく受けとめてくれる訳ではありません。
何より私自身がそうできないこと。
たくさんあります。

でも、大丈夫。
どんな時も私がじぶんに優しさを向けるから。

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