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1人の小坊主、我が道を生きたい

坊主にしたのは、カッコつけられる要素を減らしたかったから。

まぁ、元々はなんとなくなのだが、なんとなくと言う直感にも理由があるはずと追い求めてしまうのが自分の性質でして。
そこから始まるのは、生活においての気付きの言語化。


少し前、お盆の時期、法要。
お坊さんが家に来られた。
法要後のいつもの雑談タイム。
母が質問した。
「お坊さんは、なぜ坊主なんですか?」
その時坊主だった私には、タイムリーな質問。その道の人からの回答が聞ける。そう思った。
"清潔を保つため"らしい。
もっと深い、宗教的な理由もあるんだろうが、そこは語られなかった。
でも私にとっては、十分な理由だった。
なるほど、私は今回髪型において、遊びより機能性を取ったんだと気付いた。
これが一つ目の気付きである。


二つ目の気付きは、自身との対話から生まれた。

「坊主にしたいんだけど、どう?遊べる髪の毛いる?」
「ん〜、色んな髪型にするの楽しいんだけど、今はいいかな」
「なんで?」
「どうせ誰かの写真持っていって、この髪型にしてくださいってなるし、髪の毛柔らかくて、帽子よく被るから、崩れることを気にするの面倒臭いんだよね」

なるほど。

ここでの気付きは、
「どうせ誰かの写真を持っていって、この髪型にしてください」
→ 今は自己表現、自己肯定に重きを置いているので、他者への理想を介入させて、ブレてしまう髪という飾りを取っ払っちゃおうという感覚。(今はこういう感覚というだけで、憧れの髪型にすることに対して否定的という訳ではなく、素晴らしいことだと思います。それも自己表現だと思います)
「髪の毛が崩れることを気にするのが面倒臭い」
→ 他者からの目を気にする思考を取っ払いたいという気持ちが見える。他者からの目を気にするというのは、良い面もあると思いますが、現時点での私は気にしすぎるあまり、自己否定の方向に持っていかれちゃう。

要するに、
坊主にすることで、スッキリさせて、飾らない自己表現によって、自分というものを打ち出していきたいという意志が感じられる。
飾りで言うと、服や帽子などもそうだ思うが、なぜかそこのセレクトだけは一定の自己肯定感があるので、現状維持で楽しんでいこうと思う。これすごい謎(笑)もちろん人の物を羨ましくなったりはあるのだが。


最後に心の声をそのまま綴る。
誰かに褒められて、始めて良いんだと感じ、自己を肯定する。とてもありがたい。ありがたいんだが、もっと物事の始めから自分を肯定してやりたい、褒めてやりたい。

よく頑張った。誰かしらには伝わるよ!

引き続き褒めていただける方は、私の中でそれ相応に評価できる部分は褒め続けていただきたい。

京都北部、シーサイド、季節の変わり目、
一人の小坊主、我が道を生きたい。

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