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【掌編小説】夜の中

 読みかけの本の続きを気にしながら、私は夜の道を走っていた。風は生ぬるく、月が鈍く光る夜だった。
 アスファルトをひたすら踏み付けて進む私は、いまどこまで来ただろうか。ただまっすぐ、どこへ行くのかもわからないまま、走っている。

 さっきまで私は、ベッドに寝そべりながら小説を読んでいた。ママもパパも妹ももう寝静まった頃に、私だけが起きていて、小説を読み耽っていた。
 もうあと数ページで、第一章が終わる。ちょうどいい区切りだから、そこまで読んだら今日は終わりにして、私も眠りにつこう。
 だって明日も学校だから。
 そう思っていたはずなのに。どうしていま。
 私は。夜の道をひたすら。
 走っているの。
 どこまでゆくの。私。

 突っかけたサンダルのパタパタいう音が、夜の住宅街に響く。ここを真っ直ぐ抜けると、やがて田園地帯が広がる。黒い水田に月あかりが映り、光がぼんやりと揺れている。あそこに飛び込んだら、私も月の光の一部になれるのかな。
 そんなことを思いながら、私の足は駆けるのをやめない。田圃と田圃の間の道へと向かう。そこをゆけば、やがて森の中へと入ってゆく。こわい。
 夜の森なんて、こわいよ。嫌だ。
 それでも、私は森へと続く道を、まっすぐ走ってゆく。

 木々が風に揺れ、葉のざわめきが降ってくる。
 何か喋ってるみたい。
 暗い森の中。私はいま、きっと何かに見られている。視線を感じている。それは人ではない。動物? 神様? わからないけど、不審者とかそういうのじゃない。それだけはわかる。
 心臓の音が、うるさい。私の身体中を鳴らせ、そしてその音が外へと漏れ出て、森の中にも響いてゆく。ぐわん、ぐ、ぐぐ、わん、どっ、ぐっ、たん。
 不定期なリズムで続く。私の心臓。
 このまま道をずっとゆけば、反対側から出られる。そう、だからこわくはない。こわくない。
 こわくない。
 気が付けば私の口からは、ぜえぜえとした息とともに、ふっ、ふっ、ふっ、という笑い声が漏れていた。なにがおかしいの、私。わからない。でも、おかしいの。
 森のあちこちから、視線を感じる。動物が、木々が、神様が、私を見ている。視線の渦の中を、私は走っている。
 ねえ、菜穂子ちゃん。
 どうしてずっと、私と話してくれないの。菜穂子ちゃん。私が他の子と喋っていたから? でも、だって、私も他の子と喋りたいよ。
 足の裏に、血が滲んでいるよう。痛い。
 菜穂子ちゃんも痛かった? ごめんね。だけど、私もいますごく痛いよ。あの時、目が合ったね。悲しい目をしていた。菜穂子ちゃん。悪口なんて言わないよ。菜穂子ちゃんを悪く言う女の子となんて、私は一緒にいない。
 わかるでしょう。わかんないか。
 ごめんね、本当はちょっと、めんどくさかった。

 森の奥から声がする。木々のざわめきかしら。
 ちがう気がする。
 そうか、あれは、少女の声。
 ベッドの上に置き去りにした、まだ読みかけのあの本に出てきた、女の子。白い肌と細い腕の美少女。病気がちで、強気でわがままで、とっても可愛いからみんなに愛されてる女の子。
 菜穂子ちゃんが貸してくれた本。菜穂子ちゃんとちょっとだけ似てたね。
 その声に向かって走る。走る。私は。
 喉の奥から血の味がして、苦しい。苦しい。あ、そうだ。明日学校に行ったら、菜穂子ちゃんに話しかけよう。ごめんね、なんて言うと辛気臭いから、普通に話すよ。おはようって。そしたら、菜穂子ちゃんも返してくれるかな。おはようって。ねえ、菜穂子ちゃん。ごめんね。

 森の中には、生命の鼓動が溢れている。すごいよ。きっと私もその一部だろう。ああ、私はいま生きている。生きている! 私はここに生きている!
 明日になったら、明日になったら。明日になったら。

 瞬間、私の足は止まった。パタリと音がした。
 それは、サンダルの音のようで、風にめくられたページの音のような気もした。
 肩で息をしながら、私は後ろを振り向いた。そこには暗い暗い闇と、私の家へと続く、長い帰り道だけがあった。

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