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現代アーティスト3人とわたしの関係

前回記事では,ぼくの人生に大きくかかわったクリスチャン・ボルタンスキーをとりあげた。

今回のnoteではボルタンスキーを語る上で欠かせない2人の作家を紹介することで現代アートの人生における意義みたいなところを深掘りしていきたいなと思う。

このnoteの意図は先のnoteと変わってない。

もちろん私のnoteだけでは読者のみなさんのこころに突き刺さるとは思っていない。なぜなら実際の作品があるから,このひとつのnoteで突き刺さってたまるかという作家への畏怖にも近い尊敬がある。でもその世界に飛び出したとげのようなものの先端が,読者のみなさんに突きつけられていることだけ提示したい。

その2人とは
Anselm Kiefer(アンセルム・キーファー)
Tadeusz Kantor(タデウシュ・カントール)

キーファーはドイツ人,ナチス占領下のドイツの負の歴史を描く作家として名高い。例えばこの作品,衣服と,戦闘機のようなものが描かれ,髪の毛が垂れ下がっている。この作品のようにホロコーストを想起させるような作品を多数発表している。

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Lilith 1996.


カントールはポーランド人。演劇の作家として,喜劇でも悲劇でもなく現実を直視した作品を作り上げ,ポーランドの貧しさ,現実の脅威をテーマに扱っている。

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さあ出そろった3人。
ボルタンスキー,キーファー,カントール。

ボルタンスキーは,
小さなスーツケースを抱えて逃げるユダヤ人。殺されること,逃げることへの不幸。

キーファーは,
征服者であることの不幸。征服しなければならないストレス。

カントールは,
ずるがしこいポーランドの百姓。「われわれは生き延びるなぜならわれわれはあらゆるものから生き延びることのできるポーランド人だから。」

こういう作品と向き合うと,じゃあわたしが生まれ持った不幸はなんだろうかと考える。

そこでわたしの「生」の輪郭が触るように理解される。

僕がイライラするのは現代アートの多くが生とか人間ではなくてアート自身を語っていることなんだ。特にここに2,3年,多くの作品がアートに対する思考ばかりやっていて,僕はそういったものには興味がない。この傾向はいつの時代にもあったと思うけど,以前はむしろ過去の現実への崇拝の念を表現するもので今とは違う現象だったと思う。ピカソにしたってそうだった。それに比べて最近の芸術論をめぐるアートは堂々巡りしているようにしか見えない。それに僕は洒落たことばあそびみたいなのが大嫌いなんだ。


まさにボルタンスキーはそれを理解していたし,それを意図的に表現していた。彼の人生だからこそその作品がある必然性を感じるし,そんなアーティストはぼくの人生でとても重要な役割を果たす。

これは以前私が下に書いた記事につながってくる。
こんな風にアートは時代とともにあり,現代アーティストの関係性から社会との接点を探る試みから,社会とアートのなめらかな関係が生まれてくるような気がしている。


こつこつ更新します。 こつこつ更新しますので。