どこまでも信じること(読書案内)
君自身に還れ 知と信をめぐる対話
大峯顕・池田晶子
映画「ヘアー」(1979)は、ベトナム戦争に徴兵された田舎の青年と、ニューヨークのヒッピーたちとの交流の物語で、当時若者の間で話題となったミュージカル映画だ。反戦とコメディーが同居していて、苦々しい思いと人間の力強さに心動かされながら見たことを思い出す。特にセントラルパークで黒人女性が歌う「アクエリアス~輝く星座」は歌詞にインパクトがある。「水瓶座の時代、調和と理解と共感と信頼が満ち溢れる、神秘的な透徹とした黙示」などヴィジョン溢れる言葉があり、ニューエージや精神世界、トランスパーソナルなどの言葉に魅了されていた若者たちの心を掴んだ。しかし水瓶座の時代が来ると世界は平和と愛で満たされるという思いは打ち砕かれた。世界はだんだん良くなって行くという希望的観測は崩れ、格差に溢れ、ウクライナで戦争が続き、世界中で内乱が勃発している。
20代から30代のころ(1980年代)、精神世界やニューエイジ、ニューサイエンスの本を読み漁った。
何をそんなに知りたかったのだろう。今から考えれば「現実を超えた力」が欲しかったのかもしれない。自分を超えた自分と出会いたかったのだろう。現在でも「スピ系」という呼称があり、スピリチュアルなものに惹かれる人は多いと思う。
結局、私は、精神世界の本をたくさん読んだにも係わらず、自分を超えた力を得ることは出来なかった。歳を重ねて感じることは、若い時は「9割努力をしますから、後1割の大いなる力をください」と漠然と考えていたが、歳を重ねた現在は「私の人生の9割は、奇跡のようなもので、今を生きています。後1割は自分の力で人生を楽しいものにします」に変化してきたことだ。
私が中途半端で実感できなかった、「トコトン信じる」と「トコトン考える」ことの出来る二人の対談本『君自身に還れ』がある。「信とは何か」「知とは何か」という言葉に溢れている。
知力を信じ、考えることで真理を見出そうとする思想家で哲学者の池田晶子が、浄土真宗の僧侶で、哲学者、俳人でもある大峯顕に、忖度のない、ぶっきらぼうな質問を投げかけ、大峯顕が、信という途轍もなく広くて深い世界観で抱擁するように応えるという内容。
一読目は対談しているということ以外何も残らなかった。二読目、考えるとはどういうことか、信じるとはどういうことか、それぞれに実感を伴った肉声で語り合い、池田晶子のストレートパンチを信という器で受け止めて語る大峯さんの言葉がこちらの胸の奥底に少しずつ届き始める。
池田晶子の問いに丁寧に言葉を紡ぐうちに、だんだんと深く深遠な世界が浮かび上がる。ある意味池田晶子が遠慮のない言葉で大峯顕を掘り下げ、言葉を汲みだしているようだ。
対談本は、読みやすく残りにくいものが多いように感じるが、この本は読みにくく、なかなか残りにくい内容だ。しかし読み進めると、哲学書としても、仏教書としても興味深く面白い。内容を吟味するのもいいが、お二人の「知と信」に向かう姿勢と境地を感じ取れれば十分という気もする。それだけお二人の知と信はすごい。
「おわりに」の章で、
池田「問いつめたかったところはいつも逃げられてしまいました(笑)。」
大峯「こんないうまくいくとは思っていなかった。」
池田「あと十年ですか。」
という言葉がある。真理を知るには、池田晶子でも時間がかかるのだ。
あとがきにも「この『知』と『信』とがぴったりと重なり合うためには、おそらく、人生という長いプロセスが必要なのでしょう」という池田晶子の言葉がある。夭逝した池田晶子が対談の後10年生きていればどのような思想、境地に達したか是非知りたかった。
余談になるが、大峯顕は、私の住んでいる奈良県大淀町の方で、一度お会いしたいと思っているうちに、数年前にお亡くなりになってしまった。
なぜ会いに行かなかったのか、何を迷っていたのかと悔やむこともあるが、それは、私自身が実感を伴った問いを持てなかったからだと思う。今なら歳を重ねた厚かましさで、ただの好奇心だけで会いに行けたかもしれない。
いまだ着地点のないまま、惰性で生きている感じがする。これで生きていけるのならありがたいようにも思う。何かを極めることができないのは、極める必要がないのかもしれない。年を重ねて、諦めが上手くなったような気がする。
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